2013年11月27日水曜日

No.473 横浜市かねさわ区独立

地域のアイデンティティが戦後半世紀を過ぎるあたりから強く意識されはじめました。横浜の地域コミュニティ単位を歴史的に眺めてみると、
独立性の高い“地域愛”のあるゾーンが多いことに気がつきます。
まあ、横浜が“寄り合い所帯”的な市域拡大を遂げてきた自治単位なので、多彩多様性があるといえばありますが、開港場周辺と周辺隣接地域とは色合いの違いもあるようです。
(金沢区独立)
ちょっと刺激的な言葉ですが、歴史を知り地域を歩いてみると
あながち空想領域では無いなと感じる昨日今日です。
まずは妄想から。ある日、ニュースで
「横浜市南部に位置する「かなざわ区」が本日、市として独立する申立書を総務省に提出しました。「金沢(かなざわ)市」はすでに石川県に存在するので、古来「かねさわ」と呼ばれていた経緯もあり、市の名称は「神奈川県かねさわ市」と決定しました。当初、鎌倉市との合併も議論に上り、鎌倉の市民団体と「かねさわ市実現協議会」との話し合いももたれましたが、最終的に「かねさわ市」として独立することで住民の意思が一致しました。」「かねさわ市実現協議会」会長のKさんは横浜市金沢区は、1936年(昭和11年)横浜市に編入され、磯子区の一部となりましたが、中世以来武蔵国と相模国の国境で明治以降は神奈川県・六浦県・韮山県など県が入り乱れ地元のコミュニティに関係なく線が引かれていた経緯があります。(中略)六浦の皆さんには「かねさわ村」となった明治以来、「むつうら」は六浦としてしっかり残すべきだという思いもあり、今回の「かねさわ市」命名についても「金沢六浦市」「六浦市」といった意見も多く出ていました。富岡も古くから金沢文化圏でもあり議論も出ましたが「金沢区」がなんとか「かねさわ」にまとまってほっとしているところです。」
(断裂の思い)
金沢区エリアは、
中世には鎌倉幕府経済圏の中心地(湊)として栄え、
江戸時代は江戸湾の要衝地浦賀と東海道を結ぶ
「浦賀道」が通る静かな農・魚村でした。

幕末以降このエリアは(横須賀製鉄所の発展の影響など)
地形・帰属を含め烈しい変化が起こります。
まず明治初期の地形図をご覧ください。
明治の頃の地形図から現在の金沢エリアを想像することはかなり困難な作業になります。単に埋め立てされてきた地形ではないことが判ります。
その昔、野島は陸続きだったのです。

廃藩置県
韮山県を知っていますか?
駿河国、相模国、武蔵国、甲斐国内の幕府領・旗本領および伊豆国一円(伊豆諸島も含む)を管轄する広大な県でした。
金沢区地域は短い期間でしたが「韮山県」時代がありました。泥亀・町屋・洲崎・野島・芝の村域は幕末に江川太郎左衛門(韮山)の支配下となり明治初年そのまま「韮山県」となります。
一方、宿村・寺前・寺分・平分 他は六浦藩からそのまま六浦県となり、その後神奈川県に編入されます。
六浦プライドは江戸から現在まで静かに地域に根ざしています。
幕末から1878年(明治11年)久良岐郡にまとまりかけますが
磯子区に編入される1936年(昭和11年)まで
(明治22年)「六浦荘村」と「金沢村」の二つの地域は分かれることになります。
旧浦賀道を歩いていると、町の“頑固さ”に出会います。

この地域の歴史をひも解いてみると
鎌倉時代以来形成されてきた生活文化圏が
幕末から シャッフル状態になり 明治・大正・昭和を通して
開港場に翻弄され
地域開発に断裂してきた姿をかいま見ることができます。
ここにきて
「金沢八景 再開発」も始まりました。
 六浦の丘の上からの金沢風景もすてきです。
平潟湾を囲み、海と丘の町 かなざわは
景観を維持しつつ住まいやすさの追求が
どう地域の“プライド”につながるのか?
見守っていきたいエリアの一つです。
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2013年11月20日水曜日

【横浜小さな駅】田園都市線 市が尾駅

田園都市線沿線の小さな駅「市が尾駅」周辺を紹介しましょう。
「市が尾駅」は
1966年(昭和41年)4月1日に田園都市線が長津田まで延伸した際に開設されます。
田園都市線の駅間距離が1km前後中心ですが、
隣接駅「江田」へは1.3km、「藤が丘」へは1.5kmと平均より長くしかも起伏のある傾斜地に作られた「駅舎」です。
昔、マーケティングの師匠の教え
「鉄道、国道は川と同じ。地域をつなぐが分断もする。橋が無ければ万里の長城、文化も変える」
「市ケ尾駅」に降り立つとこの言葉を思い出します。
田園都市線はほぼ「国道246号線」に沿って走っていますが、都内の地下路線を除いて「江田駅」とともに246号線に最も近い駅です。
鉄道=田園都市線、国道=246号線が
このエリアを南北に走り、
しかも西側を「一級河川鶴見川」が北から南に流れ“地域を分ける要素”が揃っています。
これは決して悪い意味ではなく、横浜市内の田園都市線沿線としては昔の香りと新興住宅地の香りが併存している独特の街に感じます。
旧道、そして河川敷の佇まい。
起伏のある丘陵地帯と、そこに広がる新興住宅地。
典型的な「郊外の街」とも少し違う街の佇まいがあります。
鶴見川に沿って散策していくと鉄(くろがね)町、さらに上流には寺家のふるさと村もあり、横浜の“原風景”を巡る最適なルートです。

「市が尾」は不思議な町です。
青葉区内の田園都市線各駅「青葉台」や「あざみ野」「たまプラーザ」と比較して小さな町ですが、
青葉区の行政上の中心地域としての顔があります。
○横浜市青葉区総合庁舎
 市内18区の中でも、青葉区役所は解りにくい(行きにくい)ベストスリーに入るかもしれません。
 ○横浜市青葉福祉保健センター
 ○横浜市青葉スポーツセンター
 ○横浜市青葉公会堂
 ○横浜市消防局 青葉消防署
 ○青葉郵便局
 ○神奈川県警察 青葉警察署
 ○横浜地方法務局 青葉出張所
 ○神奈川県 緑県税事務所
 ○緑税務署
と行政の施設が集中しています。
また1998年(平成10年)3月に
東名高速道路 横浜青葉インターチェンジが開通したことで、交通の要衝になります。

(古代史の街)
市ケ尾他鶴見側流域には、古代遺跡が数多く発見され、残されています。
市が尾駅からほど近いところにある「稲荷前古墳群」は珍しい中規模古墳で、当時の生活圏の大きさ(統治者の規模)を測ることができます。15〜17号墳の3基が保存されていて中でも16号墳は全国的にも珍しい方墳と方墳が線で結ばれたような形をしています。
http://kofun.info/kofun/213
また「市ヶ尾横穴古墳群」は、有力な農民の墓として6世紀後半から7世紀後半の古墳時代末期に造られたと考えられています。派手な「古墳群」ではありませんが、このエリアを歩いているとひと際良くわかる“こんもりとした丘”が「古墳群」として残されています。一部は開放されていて無理をすれば横穴に入ることもできます。(子供であれば難なく)
中にはガラス窓から横穴を覗くこともできます。
http://kofun.info/kofun/573
(ついでに)
駅から1分のところにある「市が尾第三公園」のオブジェ
「市が尾ベーカリー」
地元で信頼のあるパン屋さんだそうです。
“人気の”という枕ではなく“信頼の”というところがミソですね。
ご夫婦二人で、切り盛りされています。
→駅から徒歩7分位

「田園の憂鬱」
No.472 横浜と法政大学、その点と線
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/11/no470_19.html
ここでも書きましたが、佐藤春夫が一時期暮らしていました。
「田園の憂鬱」の舞台となりました。

「とんかつ とん平」
なかなか丁寧な仕事ぶりで、
地元に愛されている感じが伺えるお店です。
→駅から徒歩5分位

※「市が尾駅」特に「わざわざ」行くところではありませんが、
 時にぶらっと立ち寄ってみたいところです。
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2013年11月19日火曜日

No.472 横浜と法政大学、その点と線

法政大学は横浜と関係があります。
今日は、1920年(大正9年)に設置された法政大学と横浜を点と線で結んでみることにしました。
法政大学は東京六大学の一つで、
1880年(明治13年)4月に開設された「東京法学社(のち東京法学校)」と
1886年(明治19年)開校の東京仏学校が前身となり1920年(大正9年)の大学令に基づき大学となりました。
私学としては日本で最初の「法学部」と「社会学部」を設置しました。特に法学に関しては「日本近代法の父」ボアソナードが初代教頭に就任しています。
この「法政大学」設立の源流に
“横浜”がつながりますが
その前に
法政大学校歌をお聞きください。
http://www.youtube.com/watch?v=LdBbAFaKnRE
法政の校歌は
作詞は佐藤春夫
作曲は近衛秀麿という当時としては
最強のタッグが組まれました。
創設間もない
1929(昭和4)年、法政の学生の間に
校歌作成委員会が結成されます。
当初は学生から応募を募り
作品73編のエントリーがありましたが 
その中から何を選ぶか
なかなか意見の一致が得られませんでした。
最終的に当時法政大学で教鞭を執っていた
“佐藤春夫教授”に作詞を依頼し
作曲は“近衛秀麿”という最強タッグが組まれこの校歌が誕生しました。
校歌にしては珍しく
作詞者、作曲者の間で激しい論争、激論がかわされたそうです。
(1)
若きわれらが命のかぎり
ここに捧げて(ああ)愛する母校
見はるかす窓(の)富士が峰の雪
蛍集めむ門の外濠
よき師よき友つどひ結べり
法政 おお わが母校
法政 おお わが母校
(2)
若きわれらが命のかぎり
ここに捧げて(ああ)愛する母校
われひと共にみとめたらずや
進取の気象質実の風
青年日本の代表者
法政 おお わが母校
法政 おお わが母校

作曲者の“近衛秀麿”は少し横浜と関係があります。
No.332 11月27日(火)おやかた、濱で一振り。
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/11/no3321127.html

横浜と関係が深いといえば、近衛秀麿より作詞の佐藤春夫です。
法政大学校歌の作詞を行った昭和4年当時
佐藤春夫は短期間ですが法政大学で教鞭を執っています。
1929年(昭和4年)に法政大学予科講師となり、作文を担当していました。
ちょうどこのタイミングに、校歌づくりが行われたことになります。
作家 詩人でもある佐藤春夫は 和歌山県新宮に生まれ育ちますが、
1910年(明治43年)に上京し与謝野寛の新詩社に入ります。
その後、若き日の一時期
1917年(大正6年)から数年を
神奈川県都筑郡中里村鉄(くろがね)
現在の横浜市青葉区鉄で過ごしました。
この“くろがね村生活”をベースに誕生したのが
短編「病める薔薇」短編集としてまとめた「田園の憂鬱」です。
当時は鉄道も無く
「広い武蔵野が南端になって尽きるところ」
「言わば山国からの微かな余剰を湛えた〜」
大山街道沿いの小さな集落でした。
ここには 現在 佐藤春夫「田園の憂鬱由縁の地」碑が建っています。
佐藤が暮らしていた当時「田園の憂鬱」に登場した近所の女学生のモデルとなった金子美代子さん(故人)が、戦後本人の同意を得て建てたものです。
現在は 往時の風景も殆ど無く、一部の丘陵地が残るのみです。

さあ、法政大学と横浜の関係“本編”に戻ります。
法政の前身学校となった「東京法学校」は、フランス法系学校として1880年(明治13年)4月に開設された東京法学社が出発点となっています。
この東京法学校の初代校長となった人物が薩埵正邦(さった まさくに)で後の法政大学創立者の中心人物です。
この東京法学校の姉妹校として
1886年(明治19年)5月横浜市の尾上町6丁目に設立されたのが
「横浜法律学校」です。
横浜代言人組合(後の横浜弁護士会)によって設立された「横浜法律学校」は、当時としては大変珍しく、この代言人(弁護士)による法律家育成組織の結成に重要な役割を果たしたのが先の薩埵正邦(さった まさくに)でした。
開校時から東京法学校の教員が多く講師陣に名を連ね、修業年限の3年を超えて修学を希望するものは東京法学校へ編入できる名実共に「姉妹校」といえる学校でした。
残念ながら
横浜法律学校は、1889年(明治22年)ごろに財政的な問題で廃校となってしまいますが設立から3年間に法律関係書籍の発行等を行い優秀な人材も育成しました。
例えば
江戸文化・風俗研究家「江戸学」の祖といわれた三田村 鳶魚(みたむら えんぎょ)は「横浜法律学校」に学びました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/三田村鳶魚

この「横浜法律学校」
尾上町6丁目に設立されましたが、
現在でいえば 指路教会の向かい側あたりでしょうか?
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2013年11月12日火曜日

【番外編】ランドマークが建つ

残照、ある時期 みなとみらいエリアに建つ(建設中の)ランドマークタワーを撮っていた時期があります。
記憶に残るランドマークタワーの風景を紹介します。
ごめんなさい!!一部画像が逆版です、
修正アップし直しますのでしばし逆でご勘弁を。
フィルムからスキャンした際 左右を間違えました。
■ランドマークタワー
正式には「横浜ランドマークタワー」といいます。
70階建てで高さ296.33mです。
1990年(平成2年)3月20日に着工し、1993年(平成5年)7月16日に開業しました。
http://www.yokohama-landmark.jp/page/
http://ja.wikipedia.org/wiki/横浜ランドマークタワー
今日は 写真集です。
特に解説は設けません。

全国から精鋭の職人が集まったそうです。クレーン職人が話題に。 
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No.471 横浜・世田谷・彦根

私は特に“運命論者”ではありませんが、
巡り合わせの不思議さを感じることが時々あります。
今日はある偶然の一致を紹介しましょう。
2008年(平成20年)〜2010年(平成22年)横浜開港150年関連の仕事で彦根市に何度か出向くことになりました。
国宝 彦根城
ゆるキャラ人気のひこにゃん
それまで滋賀県長浜・大津は何度も訪れたことはありましたが、彦根は気になっていましたがスルーしました。
私は、東京都世田谷区世田谷に生まれました。
中学で引っ越すまで野毛町(これも因縁?)と上町に育ちました。
一時期過ごした世田谷の自宅近くは「ボロ市」で有名な通りがあり、玉電が走る下町風情の住宅地です。近くに「豪徳寺」という大きな寺があります。
この豪徳寺は「招き猫」で有名なところですが、その所以となった彦根井伊家の寺として有名です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/豪徳寺
寛永10年(1633年)近江彦根藩第2代藩主であった井伊直孝が井伊氏の菩提寺として伽藍を創建し整備したことから現在に至ります。
ここには、一部の彦根藩主の墓がありますが中でも第15代藩主だった井伊直弼の墓もあることで有名になりました。
井伊直弼の墓
自宅近くに掃部山公園があります。
掃部山は難読地名に入るでしょう。
「かもんやま」と読みます。
名前の由来は、井伊直弼(いいなおすけ)の官職名から来ています。
江戸時代には 様々な役職(官位)があり大名は○○守・頭(〜のかみ)と名乗りました。テレビドラマで有名な大岡越前守(おおおかえちぜんのかみ)は、町奉行として徳川吉宗の「享保の改革」を支援した大名で、越前=福井とは全く関係がありません。
井伊家は代々掃部頭(かもんのかみ)を名乗ったため、近江彦根藩の第15代藩主だった井伊直弼も“井伊掃部頭直弼”と名乗ります。幕末の徳川幕府の大老となった井伊直弼の公園がなぜ横浜市西区にあるのでしょうか?
彦根市に建つ井伊直弼像
この話は次回(No.472)で紹介します。

小さい頃遊んだ豪徳寺、平成の自宅近くにある掃部山公園
ともに井伊直弼つながりですが 自宅は引っ越し決めるときの理由には全く入っていませんでした。というよりまったく忘れ去られていた存在といったほうが正確でしょうか。
さらに一時期暮らした「世田谷区野毛」
現在の自宅近くにも「野毛」があり 縁とは不思議なものです。
→もう少し加えれば 現在の実家が茅ヶ崎で両親は福井県出身ですが、
 茅ヶ崎は「大岡越前守」の墓があるのです。
 父は引っ越してから知ったそうです。
しつこく、因縁はまだあります。
私の自宅近くに「日ノ出町」という街があり、京浜急行の駅近くには幕末期「陣屋」がありました。開港に際し関内の居留地警備のために幕府の命令で一時期福井藩が警備にあたっていました。ただ、この警備にあたっては一悶着ありました。
幕府は、横浜に居留地を開くにあたり警備を越前松平藩に命じますが、
このときの藩主“松平春嶽”は、命令をやんわりと拒否します。
これに激怒したのが 時の大老“井伊直弼”ですから 因縁ですね。
このことも含めて“安政の大獄”で春嶽は失脚、その後(しぶしぶ)越前松平藩は横浜警備に就くことになり、そこにスタッフとして赴任したのが岡倉 覚右衛門
岡倉天心の父親です。
歴史は史実の点と線を編むのが面白いところですね。

No.382 1月16日(水)横浜と福井
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/01/no16116.html
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2013年11月11日月曜日

No.470 パーセプションギャップを読む

日本が開国することで多くの国々から外国人が来日します。
目的はビジネス、政治、教育、布教 等々いろいろありました。
彼らは一応に驚き、それぞれの価値観で未知の国「日本」を理解しようとしました。
未開の“野蛮”な国と感じる人、美しき風景に感動する人、美術・工芸に驚嘆する人、インフラや生活水準を未熟とする人 様々でした。

そして彼らは日記や書籍、新聞等々で“不思議の国”を母国に伝えます。
このブログでも何人かの人物を通して横浜(日本)の姿の伝わり方を紹介しました。

No.402 JIMAE TABI
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/02/no402jimaetabi.html
「幕末から明治中期にかけて日本が外国から技術や語学研修のために多くの
“OYATOI”外国人が来日しました。一方で、在留外交官・宣教師や商館の外国人も“自前”で日本国内を旅記録に残し、一部は母国で出版され日本研究や、日本紹介の役割を果たしました。今日は、外国人の日本紀行の一部を紹介しましょう。」

→ここでは、外国人が日本(横浜)について記述した旅行記系の書籍を紹介しました。
今日は、これら多くの外国人が“幕末から明治”にかけて来日し日本をどう認識したかをテーマ別に“横断”してまとめあげた一冊の著作を紹介します。
「逝きし世の面影」渡辺京二 著
平凡社ライブラリー
「逝きし世の面影」というタイトルからも読み取れますが、
著者は 開国時に訪れた外国人の日本評から 明治以降急激に失われたであろう“日本”(文化)の姿を浮き彫りにしようと試みています。
開国当時ですから日本といってもその多くが
横浜(神奈川)・江戸(江戸郊外)・日光・長崎・函館 など開港に関連するエリアが多く取り上げられています。
この「逝きし世の面影」から地域を拾いだすことで
外国人の“横浜”(論までいきません)が読み取れます。
本書で引用された訪日外国人の一部
■外交官
「アンベール」「オイレンブルク」「エルギン」「オールコック」「ゴンチャロフ」「シーボルト」「ハリス」「パークス」「ヒューブナー」他
■女性外国人
「バラ」「バード」「シドモア」他
■研究者・専門家
「ケンペル」「ベルツ」「パーマー」「ヘボン?」「モース」他
その他「グリフィス」「ペリー」「グラント」「ブラック」他

(意外)
多くの外国人が最初に訪れた開港都市「横浜」の記述が意外と少ないことに気がつきます。
著者の引用の傾向もある程度見受けられますが、オリジナルにあたってみても
外国人にとって開港居留地の街「YOKOHAMA横浜」よりも郊外部の残された(当時はありのままの)日本に関心があったことも事実です。

オールコック「破損している小屋や農家」を見受けなかった。と神奈川近郊の田園の豊かさに感動していたようです。
一方で他の外国人の中には「日本の農業はいまなお非常に未開なやりかたで行われている」と認識した人物も引用しています。
(切り口)
この「逝きし世の面影」の章立ては
 ○ある文明の幻影
 ○陽気な人びと
 ○簡素とゆたかさ
 ○親和と礼節
 ○雑多と充溢
 ○労働と身体
 ○自由と身分
 ○裸体と性
 ○女の位相
 ○子どもの楽園
 ○風景とコスモス
 ○生類とコスモス
 ○信仰と祭
 ○心の垣根
14にわたる章立ての中で、思いのほか少なく感じたとはいえ
多くの横浜に関するエピソードが鏤められています。
いささか懐古的過ぎる、外国人によるニッポンよいしょ!集の感も拭えませんが、世界各国から日本(横浜)を訪れた 日本(横浜)の「価値」を再認識し、現在を考える良き資料となることは間違いありません。

(イザベラ・バード)
この「逝きし世の面影」中でも良く取り上げられているイギリスの女性旅行家、紀行作家であるイザベラ・バード。
明治初期の東北地方や北海道、関西などを精力的に旅行し、旅行記"Unbeaten Tracks in Japan"を著します。
時期は
1878年(明治11年)6月から9月にかけて、通訳兼従者として雇った「伊藤鶴吉」野他には誰も伴わない“女性 一人旅”の記録です。
世界的にも当時珍しい女性旅行家のニッポン紀行に登場する「日本」は新鮮で、欧米文化と日本文化の間にあるギャップと、理解の手がかりをここに読み取ることができます。一般的な紹介では日光、東北地方や北海道、関西旅行が有名ですが、44章立ての中で冒頭と最後には 横浜の情景が印象深く描かれています。
「上陸して最初に私の受けた印象は、浮浪者が一人もいないことであった。(中略)税関では、西洋式の青い制服をつけ革靴を履いたちっぽけな役人たちが、私たちの応対に出た。たいそう丁寧な人たちで、私たちのトランクを開けて調べてから、紐で再び縛ってくれた。ニューヨークで同じ仕事をする、あの横柄で強引な税関吏と、おもしろい対照であった。(英米間は当時険悪な関係であったことも背景にありますが…)
横浜の英国代理領事との会話では「私の日本奥地旅行の計画を聞いて『それはたいへん大きすぎる望みだが、英国婦人が一人旅をしても絶対に大丈夫だろう』と語った。」
「横浜駅は、りっぱで格好の石造建築である。玄関は広々としており、切符売り場は英国式である。等級別の広い待合室があるが、日本人が下駄をはくことを考慮して、絨毯を敷いていない。そこには日刊新聞を備えてある。」
など 当時の様子が丁寧に描かれています。

イザベラ・バード自身、先入観もありましたが次第にそのパーセプションギャップを融和していく心の変化を読み解いていくのも面白いでしょう。
最終章、最後にイザベラは
「汽船ヴォルガ号にて、一八七八年クリスマス・イブ。----雪を戴いた円い富士山頂は、朝日に赤く輝いていた。私たちは十九日に横浜港を出て、ミシシッピー湾(根岸湾)の紫色の森林地帯のはるか上方に富士山が聳え立つのを見たのである。三日後に私は日本の最後の姿を見た----
冬の荒涼とした海が烈しく打ち寄せる起伏の多い海岸であった。」

(印象的な山形路)
http://www.genki-machinet.com/img/20070602-4/20070609-15yamasin.pdf
http://www.genki-machinet.com/img/20071005-08/20071016-23yamasin.pdf

(外国人に関する関連ブログ)
No.413 あるドイツ人の見た横浜
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/02/no413.html

No.163 6月11日(月) 反骨のスコッツ親子
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/06/no163611.html

No.290 10月16日(火)文士の大家さんは法律家
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/10/no290-1016.html

No.234 8月21日(火)パーセプションギャップの悲劇
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/08/no234-821.html
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