2013年9月29日日曜日

暦で語る今日の横浜【9月30日】

横浜の年表から
 今日起った出来事をピックアップしました。
【9月30日】はかなり話題満載です。小分けしたいところです。

●1890年(明治23年)の今日
「週刊英文 ウィクリー・レヴィュー・オブ・ヨコハマ・マーケット 
(The Weekly Review of Yokohama Market)が創刊された」

●1909年(明治42年)の今日
大鳥居正が「故井伊直弼朝臣銅像除幕式之記」を発行した
「故井伊直弼朝臣銅像除幕式之記」は現在
東京大学 史料編纂所 図書室所蔵
神奈川県立図書館所蔵
→近日 資料を確認する予定です
横浜市西区にある掃部山に建てられている井伊直弼像に関して
建立時に様々な障害が起ります。
「井伊直弼像建立」に賛成するもの、反対するもの
ガチンコ勝負で 闘争します。
井伊直弼の功績を称するグループは開港50周年にあわせて井伊直弼像を建立する計画を立てます。最初は東京日比谷公園内に建てる計画でしたが、
幕末に起った“安政の大獄”によって多くの大先輩を失った薩摩藩、長州藩出身の政府高官達は猛反対します。
一方、薩長の藩閥政治に対抗する者達や旧彦根藩出身者、徳川関係の井伊直弼支持者は、平和裏の開港は井伊の功績と評価します。
→このあたりは 目下“大量の”資料を呼んでいるところです。
井伊支持派の資料
 両者の言い分に 無理も正論もあり 面白いので まとまりません!?
 
●1921年(大正10年)の今日
「横浜中央食品市場が高島町8丁目築地橋先に設立された。
さらに寿町の市場を合併して10月25日に開業した」
その後、1923年(大正12年)に制定された卸売市場法で中央卸売市場が開設されます。
No.97 4月6日 東日本初の中央卸売市場が認可される
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/04/46.html

●1922年(大正11年)の今日
横浜劇場でロシアバレイ団のパヴロワ女史公演(〜10/3)。
花月園内に花月園少女歌劇が創設された

No.52 2月21日 東洋一の遊園地(加筆修正)
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/02/221.html

●1929年(昭和4年)の今日
「印刷所廃止、以後、乗車券印刷を横浜刑務所に委託」
横浜刑務所は、その昔久良岐郡役場と村役場があった場所だそうです。
刑務所では受刑者の社会復帰用に様々な職業訓練を行っています。
http://www.moj.go.jp/KYOUSEI/KEIMUSAGYO/sagyo/sisetu_yokohama.html

毎年、横浜刑務所(港南区港南)では「横浜矯正展」が11月最初に(3日前後)開催され多くの作品が展示即売されます。

●1929年(昭和4年)の今日
「昭和絹靴下株式会社(資本金1,500,000円)が横浜市中区井土ヶ谷町250に設立された」と資料にありました。
昭和絹靴下株式会社を継承する株式会社アルバックの社史によりますと
1929年(昭和4年)9月20日設立とあります。
戦後、日本真空技術株式会社として新業態に転換し2001年(平成13年)に株式会社アルバックとなり現在に至っています。本社は茅ヶ崎市にあります。

●1929年(昭和4年)の今日
日本郵船氷川丸,横浜船渠で進水。

No.116 4月25日 紺地煙突に二引のファンネルマーク
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/04/no116425.html

氷川丸はまだまだ 紹介しきれていないネタ多くあります。
追々 追加していきます。

●1930年(昭和5年)の今日
「日本最古の横浜電気館が閉鎖した」
横浜市松ヶ枝町25、現在の中区伊勢佐木町2丁目91あたりで開業していた映画館で、
1908年(明治41年)開業。
ここでは日本最古となっていますが、
1903年(明治36年)に東京市浅草区浅草公園六区(いわゆる浅草六区)に吉沢商店が「常設活動専門館」としてオープンしたのが日本初といわれています。

●1931年(昭和6年)の今日
「わが国潜水業の祖である田中銀蔵(90)が没した」
別資料では
「日本水産業界の元祖 田中銀蔵 没する」とあります。
※その他の資料は現在 見当たりません。
 潜水業であれば、幕末期に増田万吉が潜水業を始めた記録が“金沢文庫”“沿革史”等に残っています。

●1969年(昭和44年)の今日
市電
久保山線(浜松町〜阪東橋間)
神奈川線(州崎神社前〜横浜駅前間)廃止
水色の路線が廃止されました
廃止路線の代替バスとして
102系統 滝頭車庫前〜浦舟町〜横浜駅前〜州崎神社前間 運転開始します。

●1985年(昭和60年)の今日
「横浜新都市ビルがオープン、1階が横浜駅東口バスターミナルに」
No.274 9月30日 (日)巨大資本の東西戦争
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/09/no274-930.html

暦で語る今日の横浜【9月29日】

横浜の年表から
 今日起った出来事をピックアップしました。

●1902年(明治35年)の今日
インターナショナル銀行(資本金$5,000,000)が山下町に設立されました。
インターナショナル銀行(Intemati㎝al Banki㎎ Corporation)は1901年にニューヨークで設立され早速日本(横浜)に進出します。
1879年(明治12年)2月に横浜正金銀行開業後、
明治期には外国銀行が続々日本進出します。
その多くが横浜に日本支店(横浜支店)を設立しました。
【1880年代】
※チャータード銀行 本店ロンドン
(Chartered Bank of India,Australia and China)
※ニュー・オリエンタル銀行 本店ロンドン
(New Oriental Bank Corporati㎝,Ltd.)
※コントワール・ナショナル・デスコント 本店パリ
(Comptoir National d’Escompte de Paris)

【1890年代】
※ナショナル・バンク・オブ・チャイナ 本店香港
(Nati㎝al Bank of China,Ltd.)
※露清銀行 本店サンクト・ベテルブルク
(Banque Russo Chinoise)
1896年設立→1910年露亜銀行と改称
横浜支店は山下町で、警友病院となり現在は結婚式場

No.161 6月9日(土)  日本、ロシアに勝利!
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/06/no16169.html
【1900年代】
※インターナショナル銀行 本店ニューヨーク
(Intemati㎝al Banki㎎ Corporation)
※独亜銀行 本店上海
(Deutsche Asiatishe Bank)
※金門銀行 本店サンフランシスコ
※日英銀行 本店ロンドン
(AngloJapanese Bank)
※合盛元銀行 本店中国遼寧省安東
※日米銀行 本店サンフランシスコ
などです。

●1920年(大正9年)の今日
「横浜座で国際柔拳倶楽部と神戸ボクシング倶楽部の主催により柔道とボクシングの競技大会開催。」
横浜で大正版 K1グランプリ開催ってとこですか?

●1921年(大正10年)の今日
「横浜ドック・禅馬鉄工所・横浜工作所に争議がおきた」
「浅野造船所にサボタージュが起きた(2,700名参加)」
この資料を見て、“禅馬鉄工所”が記憶にありましたのでピックアップしました。
出典は「横浜歴史年表」とあります。
禅馬鉄工所は、地元の古老が知る程度ですが、戦前磯子にあった大きな鉄工所です。大正から昭和にかけて、重工業化を急ぐ日本では、各地で労働争議が起りました。ここによこ登場した横浜ドックは三菱造船に吸収された「横浜船渠」、横浜工作所は現在も鶴見にある「株式会社横浜工作所」だと推測されます。浅野造船所は「日本鋼管鶴見造船所」となり現在はコットンハーバー地区でマンション群が建ち並んでいます。
禅馬鉄工所は中々資料が見つかりませんでしたが、偶然の写真から「禅馬鉄工所」に出会うことになります。
(余談です)芸子組合の名も。
No.464 昭和5年頃の横浜
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/08/no464-5.html
の後半部に記しましたが
(磯子八幡神社)の境内に昭和5年建立された「御大典記念碑」に禅馬鉄工所の名が刻まれています。
昭和3年に英国のボイラー製造の先端企業であったバブコック・エンド・ウィルコックス会社が三井物産と共同出資して磯子湾に東洋バブコック株式会社を創立します。第一工場が磯子の禅馬鉄工所と隣接する市有地合わせて6,000坪の譲渡を受けて設置される新聞記事があります。 
この記事から禅馬鉄工所の規模がある程度推測できました。
磯子八幡神社にお寄りの際には「御大典記念碑」を探してみてください。

●1944年(昭和19年)
連合艦隊司令部が慶応義塾大学日吉校舎に移転しました。
慶應義塾大学日吉キャンパスの一角の地下には、帝国海軍が作った網の目のように張り巡らされた大地下壕があり、戦後は米軍の通信基地のために接収されていました。
現在「日吉台地下壕保存の会」が作られ、地下壕の保存・整備を行っています。
このテーマは、別途紹介します。

●1949年(昭和24年)の今日
横浜市会、全員協議会が開かれ幾つかの案件の中に「日本貿易博覧会処理問題」についてが取上げられました。
現在でも関係者には耳の痛い話しでしょう。戦後復興を目的に野毛と東神奈川のに会場で開催された「日本貿易博覧会」は4,500万円の赤字見込みとなりその対処について議論されました。その大きな理由が国庫補助金5,000万円の減によるものと石河市長が説明しましたが“赤字”は“赤字”かなり議論になったようです。
他に市庁舎移転問題についても議論されました。
No.75 3月15日 JAPAN FOREIGN TRADE FAIR YOKOHAMA
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/03/315japan-foreign-trade-fair-yokohama.html

No.256 9月12日(火)どこも本庁舎引越は大問題

http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/09/no256912.html

●1970年(昭和45年)の今日
フランス山一帯を「港の見える丘公園」拡張用地として取得しました。
No.129 5月8日 ヒット曲の公園
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/05/no12958.html

2013年9月28日土曜日

暦で語る今日の横浜【9月28日】

横浜の年表から
 今日起った出来事をピックアップしました。

●1882年(明治15年)の今日
「朝鮮国へ派遣された弁理公使 花房義質が明治丸に乗り横浜港に到着し横浜に仮設され東海鎮守府に入ります。東海鎮守府は後に横須賀に移設されます。
花房義質、到着に際し
横浜株式取引所に加盟する商人達が町会所(現在の開港記念会館)に花房義質を招き、饗応しました。」

※東海鎮守府
 1876年(明治9年)
 横浜北仲通6丁目旧ドイツ領事館跡に仮設された海軍の後方支援・統轄を行う機関。
 当初東西に設置する予定でしたが、東海のみ設置されました。

花房義質は明治から大正期に活躍した外交官で、マリア・ルス号事件でも脇役ながら、重要な役割を担い日本の司法独立を世界に知らしめた功績を残します。

No.257 9月13日(水)司法とアジアの独立
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/09/no257913.html

マリア・ルス号事件訴訟の後は日露国境画定交渉のため派遣された榎本武揚全権公使を補佐し、樺太千島交換条約(1875年)を締結、日露関係の安定に寄与します。
また、朝鮮外交では日本側から自由貿易を求め仁川開港問題を協議、20ヶ月後に仁川を開港するとことで合意するなど、日韓関係に積極的な関係を築きますが、歴史認識のズレ(パーセプションギャップ)のために
朝鮮では嫌われた人物の一人です。
1882年(明治15年)8月3日付の朝野新聞では
『聞く所に拠れば、朝鮮の頑民等は英米諸国よりも我邦を嫌忌すること甚だしく、殊に花房公使を、文禄の役に従事せし小西行長等と同視し、又、彼の頑民共が国王に建白したる大意は日本と交通するは必ず往時、李唐の侵略に逢いたる覆轍を踏むや明かなれば、速に交通を絶つに若しかずとの旨趣なりと。』と報道されました。

●1901年(明治34年)の今日
木下尚江(31歳)と幸徳秋水(29歳)ら二人は、横浜雲井町の「雲井座」で開かれた「普通選挙期成同盟会横浜支部」主催の演説会に出席します。
この年に秋水が刊行した『廿世紀之怪物帝国主義』は同時代の世界思想潮流の中でも帝国主義を批判した先駆的思想といわれています。
※普通選挙期成同盟会とは、普通選挙運動の中心団体として1897年(明治30年)に長野県松本で初めて組織されます。
1900年(明治33年)に国会に請願され活発な普選運動となっていきます。
※横浜雲井町は、現在の横浜市中区長者町5丁目あたりです。

※木下 尚江(きのした なおえ)社会運動家、作家。
 クロムウェルの影響を受け、法律を学びます。
 廃娼運動、足尾銅山鉱毒問題、普通選挙期成運動などで論陣を張り、
 1901年(明治34年)には
 幸徳秋水、片山潜、堺利彦らの社会民主党の結成に参加します。
 田中正造の死期に立ち会い看護も行った人物です。
 幸徳秋水と木下尚江は、次第に考え方が分かれ、
 秋水は、アナキズムへ。木下尚江は社会主義運動から離れ
 人間主義に関する著作活動に向かいます。

●1906年(明治39年)の今日
「三橋信方」が第5代市長に就任しました。
任期は1906年(明治39年)9月28日〜1910年(明治43年)6月25日
開港50周年記念事業を取りまとめ、実施しますが徒労のため体調を崩し退任、早々に亡くなります。
※横浜市のき章『浜菱』の制定
 No.183 7月1日(日) 7月のハマ?
 http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/07/no183717.html
※横浜市歌の作成
横浜市歌の真実
http://tadkawakita.blogspot.jp/2011/12/blog-post_15.html

No.217 8月4日 (土)わがひのもとの虎列刺との戦い
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/08/no217-84.html

●1989年(平成元年)の今日
横浜市営バス109系統「桜木町駅前〜横浜ベイブリッジ〜スカイウォーク前」間の運転を開始します。
前日の27日は横浜ベイブリッジがオープンした日でもあります。
※ベイブリッジ開通に合わせ
 スカイウォークは1989年(平成元年)9月27日から2010年(平成22年)9月26日まで営業されました。

【番外編】もうひとつの9月27日
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/09/927.html

No.201 7月19日(木)港を感じる絶景ポイント
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/07/no201719.html

2013年9月27日金曜日

暦で語る今日の横浜【9月27日】

横浜の年表から
 今日起った出来事をピックアップしました。
(今日はちょっと手抜きしました。羅列のみです。追って掘り下げます。)
●1934年(昭和9年)の今日
英国産業連盟満州国視察団のバーンビーら四名、満州入りの途次来日。
この日郵船「竜田丸」で横浜着。
→竜田丸は別途テーマにする予定です。
No.39 2月8日 龍田丸をめぐる2つの物語
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/02/28.html

●1923年(大正12年)の今日
21日山下町に設置されたアメリカ船の野戦病院が日本赤十字に寄贈されました。

●1923年(大正12年)の今日
日本郵船が横浜・清水間の海上輸送をはじめた
1863年(文久3年)清水港から横浜港へ『静岡茶』を初めて出荷します。
1876年(明治9年)清水〜東京間の定期航路が開かれます。
1879年(明治12年)米国前大統領グラント将軍が来港します。
1897年(明治30年)清水に横浜税関支署が設置されます。
1899年(明治32年)国際港として“開港”します。
1906年(明治39年)静岡茶を初めてアメリカに輸出します。
 緑茶515ポンドを日本郵船の「神奈川丸」で米国シアトルに初めて出荷します。
1910年(明治43年)清水港の緑茶の輸出量が横浜港を上回ります。
1923年(大正12年)関東大震災に際し、復興用の大量の木材を被災地ではなく清水港に緊急輸入し横浜・東京に搬出し復興の原動力となります。

●1925年(大正14年)の今日
「詩之家」を主宰する佐藤惣之助(34歳)は、横浜鶴見にある三笠園で野外詩会を開催しました。会には36名集まり互選採点の結果13票田辺憲次郎、10票八木重吉、7票佐藤惣之助、6票大鹿卓などでした。
【佐藤惣之助】川崎市出身の日本の詩人、作詞家。作曲家、古賀政男と組み多くの楽曲を世に送り出します。1938年(昭和13年)には、久米正雄、林房雄、川口松太郎らと中国へ従軍記者として赴きます。
『赤城の子守唄』(昭和9年2月)
『大阪タイガースの歌』(昭和11年3月)
  (現:阪神タイガースの歌、通称:六甲颪)
『人生の並木路』(昭和12年2月)
『人生劇場』(昭和13年7月)
『新妻鏡』(昭和15年6月)
【八木重吉】神奈川県師範学校(現・横浜国立大学)出身の詩人。この野外詩会で入選したことをキッカケで佐藤惣之助主催の「詩之家」の同人となります。結核になり茅ヶ崎で療養生活を送りますが29歳で亡くなります。たった5年ほどの短い詩作生活でしたが、その間に書かれた詩篇は、2000を優に越えました。
http://2style.net/misa/fuguruma/yagi/yagi.html
【大鹿 卓】小説家、詩人。金子光晴の実弟で、京都帝国大学経済学部中退し、秋田鉱山専門学校を卒業し化学教師を務めながら詩を書きます。
※トップ入選した田辺憲次郎に関しては不明です。

※鶴見三笠園
 鶴見には一時期東洋一といわれた「花月園」がありました。
 その後、近隣に競合の遊戯施設「三笠園」が進出します。

●1951年(昭和26年)の今日
商工会議所会頭「平沼亮三」は1951年(昭和26年)4月に市長選で当選、横浜市長に就任したため辞意を表明します。
議員総会を開き第14代会頭に原良三郎を選任しました。

●1952年(昭和27年)の今日
第1回横浜市長杯争奪ノン・プロ女子野球大会が開催されました。(〜28日)
結果は岡田乾電池が優勝しました。
※女性の野球大会が戦後早々に開催されていたんですね。

●1966年(昭和41年)の今日
捺染業者である日国産業社長“志村吉造”が電動式自動スクリーン捺染機を完成します。横浜と捺染の関係は深いものがあります。
→捺染は別途テーマにする予定です。

●1975年(昭和50年)の今日
伊勢佐木町の誕生100年記念祭が開催されました。
→伊勢佐木町、イセザキモールは別途テーマにする予定です。

●1988年(昭和63年)の今日
MM21新線と競合する市営地下鉄3号線延伸ルートの事業免許の取り下げ方針決定しました。
→市営地下鉄3号線延伸に関しては別途テーマにする予定です。

2013年9月26日木曜日

暦で語る今日の横浜【9月26日】

横浜の年表から
 今日起った出来事をピックアップしました。

●1874年(明治7年)の今日
「1月から9月までガス灯の街頭点火料の滞納が8,100余円に上り(8割強)、このため高島嘉右衛門は株式会社の組織を計画した。しかし当局はこれを許可しなかったためガス会社は極度の経営難におちいり、ついてその譲渡を町会所に申し出るにいたったので、町会所は県庁にたいし、ガス灯譲受けの願書を出した」
政商 高島嘉右衛門の実績に一つにガス灯事業があります。
このガス会社設立を巡ってはガス会社建設の権利を得るために“愛国心”を巧みに使い“あくどい”手法で獲得します。フランス人技師を招いてガス工場(横浜瓦斯会社)を伊勢山下に建設します。
時代が早すぎたのか、経営が甘かったのか 経営難に陥ります。
(横浜瓦斯会社の歩み)
1871年(明治4年)ガス会社を伊勢山下の石炭蔵跡に建設。
1872年(明治5年)に完成。
1874年(明治7年)ガス灯譲受けの願書を提出。
1875年(明治8年)横浜町会所に譲渡されます。
その後、
1892年(明治25年)4月に横浜市瓦斯局となり
1944年(昭和19年)11月に東京ガス株式会社となります。
2013年(平成25年)7月
本町小学校で
日本で初めてガス事業を起こした「横浜瓦斯会社」の遺構が出土しました。
出土したのはホルダー(ガスタンク)の基礎の一部です。
今回発見されたものは、横浜市瓦斯局時代の
1906年(明治39年)に設置された4号ガス溜の基礎と推定されています。
(国内最古のガス管)
http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/news3.html

No.27 1月27日 ニッポン、国際コンペに勝つ
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/01/127.html

No.28 1月28日 高島嘉右衛門と福沢諭吉(加筆)
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/01/128_28.html

●1876年(明治9年)の今日
神奈川裁判所が横浜裁判所と改められ、庁内を区画して別に区裁判所を置いた
裁判所は誕生期から役割と名称が変化します。
1872年(明治5年)8月
 「神奈川裁判所」として神奈川県庁内に司法裁判所開設
1876年(明治9年)9月
 「横浜裁判所」と変更
1877年(明治10年)6月北仲通5丁目の元フランス公使館跡に移転
1882年(明治15年)1月
 「横浜始審裁判所」と変更
1890年(明治23年)3月
 「横浜地方裁判所」(裁判所構成法施行により変更)
1923年(大正12年)9月1日
 庁舎倒壊消失
1923年(大正12年)12月
 横浜公園内の仮庁舎に移転
1925年(大正14年)10月
 中区日本大通9番地の旧横浜生糸検査所を模様替えし移転
2001年(平成13年)7月
 地下2階,地上13階建ての新庁舎が完成
No.339 12月4日 (火)「横浜から神奈川」へ
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/12/no339-124.html

●1937年(昭和12年)の今日
新山下町貯木場地先海面にヨットハーバーが落成し
祝賀ヨット競技大会が挙行されました。
1940年(昭和15年)に東京で夏季オリンピック開催の決定にともない、
横浜市はヨット競技の誘致に成功し、ヨット競技開催の準備を進めます。
1937年(昭和12年)には、
東京オリンピック(昭和15年)に備えて設計コンペが開かれます。
中区新山下町にオリンピック用の仮ヨットハーバーが9月に落成し、
横浜ヨット港(ヨットハーバー)建設が計画されます。
この時に、ヨット競技の開催に尽力したのが横浜ヨットクラブ(YYC)です。

No.202 7月20日 (金) 港をヨットが舞った日
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/07/no202720.html

このヨットハーバーは、
1968年(昭和43年)まで使用され、
その後
1977年(昭和52年)磯子区に移転開設されます。

2013年9月25日水曜日

暦で語る今日の横浜【9月25日】


横浜の年表から
 今日起った出来事をピックアップしました。

●1873年(明治6年)の今日
ジョン・A・ビンガム
(John Armor Bingham、1815年〜1900年)は駐日公使として夫人(アマンダAmanda)及び2人の令嬢(エンマEmma及びマリーMarie)と共に着任します。
1885年(明治18 年)7月21日に離任するまで12年間、歴代駐日外交官としては最も長い任期を務め上げました。在任中は特に「不平等条約」の改正に尽力し日本政府を強力に『バックアップ』し、当時の英国公使パークスと徹底的に衝突した人物です。明治天皇は離任直前のビンガム公使を午餐に呼ぶなど信頼も厚かったようです。

No.247 9月3日(月)坂の上の星条旗(前)改題
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/09/no24793.html
9月3日 坂の上の星条旗 改題
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/09/93_3.html

●1964年(昭和39年)の今日
「市内遊覧バスの見学コースに「港の見える丘公園」を加え、「八聖殿」をはずす」
「港の見える丘公園」は1962年(昭和37年)にオープンしました。
観光地としては大先輩だった「八聖殿」に取って代わられてしまいました。
No.129 5月8日 ヒット曲の公園
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/05/no12958.html
「八聖殿」も悪くありませんよ。
隣接する展望台からの眺めも良いです。
でもちょっと ハレ!さが無いかな。
※「八聖殿」ブログ
http://www.hasseiden-kyodoshiryokan.blog.ocn.ne.jp
「八聖殿」案内
http://www.rekihaku.city.yokohama.jp/shisetsu/hasei/

●1925年(大正14年)の今日
作家武田泰淳の妻であり随筆家の武田 百合子(たけだ ゆりこ)が横浜市で代々の富豪、鈴木家の三女百合子として生まれます。
1943年(昭和18年)
横浜第二高等女学校(現・神奈川県立横浜立野高等学校)を卒業し在学中に同級生たちと同人誌『かひがら』に参加し、詩や文章を投稿するあたりから分筆への才能を見せ始めます。
1947年(昭和22年)の農地改革で没落し、職を転々とするようになります。この頃、同人誌「世代の会」に参加し、遠藤麟一郎、矢牧一宏、小川徹、吉行淳之介、中村真一郎、八木柊一郎、中村稔、いいだもも等と親交を持ち生涯続きました。
神田のバルザックとよばれた森谷均の経営していた喫茶店兼酒場「ランボオ」の女給となり、そこで武田泰淳と出会います。
※横浜生まれの 文筆家

●1923年(大正12年)の今日
9月1日11時58分32秒に起った関東大震災の復興に携わるために横浜市都市計画局長として、内務省の勅任技師「牧彦七」が招請され着任しました。
実は、震災から間もない9月6日に、市区改正局長から初代横浜市都市計画局長となった阪田貞明が病死しします。横浜市は政府の復興担当となった後藤内相に相談しに内務省土木技師牧彦七を横浜市に招きます。
後藤からの指示は「理想的な計画を立てることにベストを尽くせばよろしい」だったそうです。
震災で基本的な「地図」を失っていた状況下、牧彦七はまず2人の技師とともに市の内外を視察し現状把握に努めます。
また、市に関する資料を神奈川県、東京都等から収集し、復興案に必要なデータを集めます。
陸軍測地測量部の迅速地図が牧の手元に届いたのが10月10日頃だったそうです。
如何に厳しい状況だったかがわかります。
なんとか督促されながらも11月11日になってようやく帝都復興院に横浜市復興計画
案を提出します。
道路橋梁河川等土木費2億5千万円、横浜港改修9千万円、電灯会社買収5千万円、官庁再建5千万円、永代借地県買収1,500万円などを含む総予算5億1千万円規模、東京都の3分の1程度の事業計画でした。
彼のプランの骨子は
現在の関内と横浜駅の中間にあたる、伊勢町あたりに中央公園を造成しそれを囲んで官公庁と会社銀行が並ぶ新都心を形成するというものでした。
そこから各地区の公園や駅を幅員50〜60mの「逍遙道路」で結び、中央停車場(新しい横浜駅)の移動を含む鉄道網の大幅改編も含まれていました。
しかし、地元の意向は都心移動に強い抵抗を示します。
結局 牧彦七の目指した復興案は骨抜きになり 実現することはありませんでした。
11月20日付けで牧彦七は、内務省に引き上げ
1924年(大正13年)に東京都土木局長となり横浜を去っていました。
その後 昭和30年代まで日本最大の「港都」は「帝都」との都市間競争に破れていくことになります。

※牧 彦七(まき ひこしち、1873年〜1950年)
日本の道路技術者。都市計画家。
1873年(明治6年)大分県生まれ。
1898年(明治31年)東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。
卒業後台湾の台北県、台南県の技師として赴任。総督府民政長官後藤新平の下で土木課長として道路建設、都市改良、河川改修など工事を担当、廃県に伴い1901年退官。
1902年(明治35年)埼玉県技師となり土木課長就任。
その後秋田県に異動。
この時期
耕地整理に関して用水路の設計に新しい方法を求めるため、東北大学農学部に通い研究、県在職中に学位論文を起草。
1914年(大正3年)内務省に移籍。
内務省では、道路事務を担当、道路法、道路構造令、街路構造令などの制定に尽力。
1915年(大正4年)明治神宮造営局技師に就任。
1919年(大正8年)内務省土木局技師兼鉄道技師。
街路構造令を起草、橋詰広場や遊歩道施設規程等を盛込む。
1921年(大正10年)欧米各国へ出張。
1922年(大正11年)帰国。
内務省土木試験所初代所長に就任。「簡易舗装」などを考案。
1923年(大正12年)東京帝国大学工学部講師〜1930年まで講義を担当。
 9月横浜市都市計画局長就任
 11月内務省
1924年(大正13年)東京都土木局長就任
※その後の 牧 彦七 氏に関心が出てきました。追って調べてみたいと思います。

2013年9月24日火曜日

暦で語る今日の横浜【9月24日】

横浜の年表から
 今日起った出来事をピックアップしました。

●1873年(明治6年)の今日
「前年2月28日に廻り髪結の不都合をいましめたが、重ねて警告し、違反者は過怠金を取る旨を触れた。神奈川県史料(1)」
1871年9月23日(明治4年8月9日)に太政官第399「散髪脱刀令」が発令されました。明治政府は、当初強制ではなく散髪を”許す“という“お触れ”から始めます。
ところが中々浸透しないどころか、全国各地で抵抗にあいます。
そこで、明治天皇は1873年(明治6年)3月20日、範を示すということで自ら断髪します。それでも断髪しない“輩(やから)”がいるので上記の“お触れ”が半年後にだされます。

No.80 3月20日 西洋理容発祥の地、横浜
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/03/320.html
No.457 ザンギリ野毛
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/07/no457.html

実は、この太政官第399「散髪脱刀令」は、
明治時代の憲法制定前の最大改革だった廃藩置県を徹底させる役割をもっていました。
1871年8月29日(明治4年7月14日)に断行された廃藩置県は、徳川幕府を支えていた藩閥体制を解体する一大改革(これこそ実質的革命一説ではクーデター)でした。
実際、廃藩置県は各藩中枢部の抵抗なく進行しますが全国約200万人に上るとも言われる藩士の大量解雇が行われ、巷に素浪人が溢れる事態になります。
その点、横浜一帯は 城下町でも無く幕末から西欧化も進んでいたため、大きな抵抗はありませんでした。それでも冒頭のお触れが出た背景は
新天地横浜に多くの職失った“素浪人”が集まってきたという状況があったからではないでしょうか。

●1949年(昭和24年)の今日
横浜市議会の定例会が9月24日から9月29日まで開かれた中で
8月15日に竣工し第4回国民体育大会(夏期)の為に作られ使用された市営野毛山プールの市民開放のための使用条例が検討されました。
(使用料は1時間15円)
定例会ではその他
最大の議案である「日本貿易博覧会の終末処理(赤字問題など)」で論議が行われました。
No.75 3月15日 JAPAN FOREIGN TRADE FAIR YOKOHAMA
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/03/315japan-foreign-trade-fair-yokohama.html

市営野毛山プールが完成した野毛山公園一帯は
1947年(昭和22年)まで米軍に接収されていました。
1948年(昭和23年)から旧日本庭園の部分を動物園に(1951年開業)、旧洋式庭園は児童遊園地に造営されます。公園内に完成した野毛山プールは第4回国体のために作られ9月15日から18日の4日間の夏期大会に使用されます。
野毛山プールは解体されてしまいます。

その他横浜市内の競技施設が会場となったのは
三ツ沢バレーコート→バレーボール
反町体育館→体操
No.101 4月10日 薄れ行く災害の記憶
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/04/410.html

●1874年(明治7年)9月24日の今日
朝野新聞(ちょうやしんぶん)創刊
1893年(明治26年)11月19日まで東京で発行された、民権派の政論新聞です。1871年1月28日(明治3年12月8日)に創刊した先輩紙「横浜毎日新聞」の良きライバル紙となりました。
近代ジャーナリズムの草分け的人物 成島柳北が創刊しました。

暦で語る今日の横浜【9月20日】
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/09/920.html

●1945年(昭和20年)の今日
伊勢佐木町にある不二家が米軍に接収され「横浜スペシャルサービス・クラブ」として使用されました。
接収は1958年(昭和33年)5月15日に解除され不二家は営業を再開します。

2月10日 不二屋伊勢佐木町店新築開店
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/02/210.html

No.181 6月29日(金) オーシャンビューの35棟解体
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/06/no18162935.html

「横浜スペシャルサービス・クラブ」は将校用の倶楽部で
→「ヨコハマ・サービス・クラブ」「米第八軍ヨコハマクラブ」YOKOHAMA CLUB(米軍将校クラブ)
 などと呼ばれました。
 不二家の前に建っていた野沢屋は米軍用のショッピングセンター、PX(Post Exchange)でした。
不二家は兵士用のヨコハマ・サービス・クラブ ・野沢屋はショッピングセンターPX(Post Exchange)
YOKOHAMA CLUB(米軍将校クラブ)
この不二家イセザキ店は
アントニン・レーモンドの設計で価値ある歴史的建造物です。
施工は戸田組、R.C.造です。

●1939年(昭和14年)の今日
商船「照国丸(てるくにまる)」が予定通り横浜港を出発し第25次航(ロンドン線)の往航に就きます。歴史の悲劇に巻き込まれ最後の航海となります。
「照国丸」が出発する直前の1939年(昭和14年)9月1日に第2次世界大戦が始まりますが、この時日本は国際法上中立国でした。
この戦争勃発と共に、欧州航路は当時の日本のような中立国に属する商船でも、頻繁に船客や搭載貨物の臨検を受けるなど、航海は大変厳しいものでした。
横浜を出た「照国丸」は名古屋、大阪、神戸、門司、上海、香港、シンガポール、ペナン、コロンボ、ベイルート、ナポリを経由して、マルセイユに到着します。
マルセイユでは乗客及び積荷の厳しい“敵対的”臨検が行われ、4日間抑留されることになります。乗客から下船を希望する者多数が出ます。
最終的に28名の僅かな乗客を乗せ、地中海を抜けるためにジブラルタルを通過する頃には、航路周辺に“浮遊機雷情報”が多数寄せられ、緊張感の中カサブランカに到着し2泊します。1939年(昭和14年)11月15日に最終目的地ロンドンに向かって出港します。19日には英国ドーバー海峡北方のテムズ川河口沖ダウンズへ到着したところで英国海軍から独軍が敷設した機雷を除去するため待機するよう指示がでます。
翌11月20日に掃海が終了し航海許可が通達されます。
「照国丸」は英軍水先案内人の下で航海指図書に指示された通りの航路をとり船内で航海最後の食事をしながら
ロンドンに向かう途中、機雷に触れイギリス東岸ハーウイッチ港沖、北緯51度50分、東経01度30分の地点で沈没します。
幸いなことに乗船乗員は軽傷者がでますが全員退避します。
※日本政府は「この照国丸の爆沈は、中立国の通商航行権の侵害であり、国際法上の重大なる違反行為である」として、英独両国に明確な説明と正式回答を文書で求めます。しかし機雷の所属をめぐり、英・独は互いに責任の所在を認めず真相は判らないままに終わってしまいます。
日本が第二次世界大戦に参戦する1941年(昭和16年)12月8日までちょうど二年前の事件でした。

”英機雷に非ず”
照国丸事件、英の回答
ロンドン【十五日】工藤本社特派員発
照国丸の遭難事件に関しては我が駐英大使館岡本参事官より先月末英国外務省に対して具体的説明を要請したが十四日深更漸く文書により正式の回答が手交された、右回答はわが方の態度を反映して長文にわたる極めて慎重な内容で英国側の機雷に非ざる旨を述べ、国際法により今日まで機雷敷設のたびごとに緯度、経度をもって機雷敷設原を明示し来ったことを逐一繰返し照国丸遭難の個所たる東海岸には英国が機雷を敷設したことなく、従って英国の機雷による爆沈にあらざる旨縷々説明したものであるが、英国のパイロットの乗組その他については触れていないと解される、従って従来通り英国のパイロットが乗っておりながら遭難したのだから当然英国の機雷でないという見解を取来っているものと見られる、右回答は直に東京に送られドイツ側の回答と対照して今後の対策が決せられるものと見られる

※照国丸は1930年(昭和5年)5月31日、三菱重工業長崎造船所で竣工し横浜を母港に横浜・ロンドン線で活躍した商船です。

2013年9月23日月曜日

暦で語る今日の横浜【9月23日】

横浜の年表から
 今日起った出来事をピックアップしました。

●1878年(明治11年)の今日→この記事は「横浜沿革史」を元にしましたが、
 24日が西南戦争終結日で、県史には24日に式典とありますので
 下記の内容を9月24日に変更します。
「伊勢山に於て招魂祭を挙行す」
(神奈川県徴兵にして、前年鹿児島の役に戦死する十数名あり、此春建碑の挙あり、三条太政大臣の書にして、「西征陣亡軍人の碑」と記す)
1877年(明治10年)に起った鹿児島の役(西南の役)は、明治初期に起った最大の内乱でした。政府軍、反乱軍合わせて13,000を越える戦死者がでました。
この戦争で、明治政府は国家予算を使い切る程疲弊し経済が混乱します。

西南の役の忠魂碑は各地に設置されますが、横浜では「伊勢山皇大神宮」境内奥に建っています。
(現在のものは数日以内にアップします)
「当日は県知事を始め諸官員参列、戦死者遺族等参拝す、伶人及陸海両軍奏楽、八雲琴、撃剣、囃子等の催しあり、夜に入り花瓦斯及球灯数百個を点じ、煙火を打揚げ、市中毎戸軒提灯を掲げ、手踊或は囃子等の催しあり、爾来、此日を以て祭日とす」

→No.268 9月24日(月)維新の内乱を悼む
 http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/09/no268924.html

●1920年(大正9年)の今日
35歳の若山牧水は1920年(大正9年)千本松原の景観に魅せられ一家をあげて沼津に移住し活動を始めますが、この日沼津から上京の途中横浜で義弟の長谷川銀作と会います。都心での発行所を探し上京しますが、この日義弟の長谷川銀作とともに印刷屋へ行き、「創作」は11月号から横浜本牧町箕輪下400番地の長谷川銀作方で発刊されることとなります。
※箕輪下は現在の本牧原あたり?横浜市中区本牧町2丁目
横浜での発刊は1922年(大正11年)7月号から沼津の若山牧水のもとに再び移ることになります。
雑誌「創作」の経緯
1910年(明治43)25歳
雑誌「創作」の編集を開始します。3月に創刊号が発行。
1911年(明治44年)
創作社を興し、詩歌雑誌「創作」を主宰。
1911年(明治44)26歳
「創作」を休刊します。
1917年(大正6)32歳
「創作」を復刊します。
1928年(昭和3年)
牧水の死後「創作」は歌人であった妻・ 喜志子により受け継がれます。

●1926年(大正15年)の今日
鶴見の花月園に室内スケートリンク完成。
No.52 2月21日 東洋一の遊園地
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/02/221.html

No6 1月6日(金) 天然スケートリンク開場(修正、加筆)
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/01/16.html

●1927年(昭和2年)の今日
「横浜輸出麻真田工業組合が設立された。」
麻真田(あささなだ)という織物をご存知ですか?
マニラ麻の繊維を平たく厚く(真田)に編んだ織物のことで、戦前日本(横浜)の輸出産業の柱となりました。
日本の麻真田工業は1903年(明治36年)頃から始まったといわれています。
1906年(明治39年)には川崎の鳥養彦次郎が、ロンドンの取引先よりイタリア産の十三打ち麻真田の見本を入手し日本製紐株式会社に製織を依頼、自らも編織機械の試作にチャレンジし1908年(明治41年)に横浜の「上流合資会社」が工業化に成功し一大産業となります。技法は全国の織物産業に伝えられ、各地の地場産業となっていきます。
●1928年(昭和3年)の今日
「横浜第一バプテスト教会が寿町に教会堂を改築した」
横浜第一バプテスト教会は、現在「日本バプテスト横浜教会」のことです。
1873年(明治6年)にキリシタン禁制が撤廃された直後、山手203番の仮住いの地に米国バプテスト宣教師同盟のネーサン・ブラウン、ジョナサン・ゴーブル両宣教師夫妻によって設立されました。その後山手75番に移り、日本で二番目のプロテスタント教会だそうです。
1874年山手75番に最初の教会堂を建設。数度の火災に遭い再建を繰り返す。
1894年12月22日に建てられた教会が1923年の関東大震災で倒壊しますが、
当時寿町に建設していた鉄筋コンクリートの新教会堂が被災しますがかろうじて外郭のみが残ります。この教会が
1928年(昭和3年)の今日、改修工事が終了し戦争で再び焼失し外郭のみが残り、再度修復され1980年代まで使用されます。
現在の教会堂は、1981年11月22日に建替えられたものです。
〒231-0026 横浜市中区寿町2-5-8
https://sites.google.com/site/yokohama1baptist/

2013年9月22日日曜日

暦で語る今日の横浜【9月22日】

横浜の年表から
 今日起った出来事をピックアップしました。

●1900年(明治33年)の今日
「巌谷小波(30歳)横浜港からハンブルヒ号で出航、ベルリン大学付属東洋語学校講師としてドイツに向かう。尾崎紅葉、石橋思案、江見水蔭、武内桂舟、大橋乙羽、大橋新太郎らが備前丸に便乗して見送る。」
※横浜港利用ネタですが意外な横浜との関係がありました。

唱歌「富士山」(1911年)の作詞者で児童文学者となった巌谷小波(いわやさざなみ)がドイツに向かった日です。
No.229 8月16日 (木)一六 小波 新杵
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/08/no229816.html
今日多くの人たちに親しまれている『桃太郎』や『花咲爺』などの民話や英雄譚の多くは巌谷小波の手によって再生され、日本近代児童文学を開拓した人物です。
代表作の一つ「こがね丸」(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000981/files/3646_12287.html
は、明治24年1月3日に博文館から発刊されました。
小波21歳の時の作品です。
一方この作品を取上げた博文館もまた新進気鋭の経営者・編集者 大橋佐平が明治20年に創業した出版社でした。
博文館は現在の日記の博文館、印刷の共同印刷、書籍取次トーハンとなっています。
「太陽」「少年クラブ」「文芸クラブ」の三つの雑誌で黄金時代を築きます。
巌谷小波の生家は代々医者の家でした。
小さい頃からエリート教育を受け、小学校からドイツ語を学びます。
小学校を卒業後ドイツ語教育に強い“訓蒙学舎”に進みますが、当時ドイツに留学していた兄から絵本が届き小波の児童文学への道が拓けてしまうのです。小波は医者になることを拒否するようになり、文学の道に傾倒するようになります。
作品「こがね丸」は小波が江ノ島「金亀楼」に籠もり4日間で書き上げたもので、森鴎外が序文を添えています。
1900年(明治33年)の今日、横浜港に巌谷小波を見送ったメンバーの中にいた大橋新太郎は博文館を創業した大橋佐平の長男で、父を支え新規事業に成功し博文館発展の礎を支えた人物です。
大橋新太郎、東京馬車鉄道の経営改善に辣腕ぶりを発揮し、東京ガスの建直し、大橋図書館設立、衆議院議員等々政界、実業界で名を轟かせます。
この大橋新太郎は、横浜とも深い関係があります。
彼の偉業の一つが
金沢文庫と称名寺の復興です。
北条氏の支流である、金沢実時が作った称名寺と
そこに保存されている膨大な古典の保存に新太郎は多大な貢献をしています。
大橋新太郎生誕150年記念企画展(〜10月6日(日))
http://www.city.yokohama.lg.jp/kanazawa/02kuban/2013/1307-01.html


No.282 10月8日 (月)幕府東玄関を支えた寺
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/10/no282-108.html

●1903年(明治36年)の今日
「永井荷風(23歳)横浜港から日本郵船の信濃丸で出航、実業のためのアメリカ留学に向かう。巌谷小波、押川春浪(おしかわ しゅんろう)、生田葵山(いくた きざん)らが見送る。ヨーロッパ滞在を経て、41年7月に帰国する。」
※横浜港利用ネタ
同じく同時代の横浜港利用ネタです。文学界にはその名を残す永井荷風ですが、まあ、私生活はかなりのもんでかなり放蕩三昧の人物であることはご存知の方も多いでしょう。
暦で語る今日の横浜【9月13日】
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/09/913_13.html
でも少し紹介しました。
こういった見送りネタは、メンバーを調べることで交友録が判り新しいネタにつながることが多いのでネタ調べの「悦」の一つです。
押川 春浪(おしかわ しゅんろう)は、明治生まれの冒険小説作家、SF作家です。
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person77.html
生田葵山(いくた きざん)は小説家で巌谷小波の門下生。
1945年(昭和20年)12月31日に瀬戸内海で自殺してしまいます。享年70歳でした。
※日本郵船「信濃丸」ネタ
レストラン「馬車道十番館」と「山手資料館」に、
「信濃丸」で使われた椅子がある!と聞き確認に行きたい!と思っています。

●1933年(昭和8年)の今日
「俳人飛鳥田麗無公(38歳)で没した。」
若くして亡くなった飛鳥田麗無公は横浜由縁の俳人です。
「風すぎて蝉のこゑととのひけるよ」
杉田妙法寺に句碑があります。
「さびしさは星をのこせるしぐれかな」
No.458 相摸のもののふは杉田を目指す?
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/07/no458.html

●1936年(昭和11年)の今日
電気局開局15周年を記念し、24日までの3日間を「市電愛用デー」として普通運賃7銭を5銭にした記念乗車券を発売しました。
当時花形だった1000型電車のイラストが描かれました。

●1945年(昭和20年)の今日
「終戦連絡横浜事務局が設置されました。」
同じくこの日台湾総督府内にも
「終戦連絡事務局」が設置されました。
中央事務局の責任者は
長官として岡崎勝男(外務省)

彼は マッカーサー布告と戦い
ミズーリ号艦上のサンフランシスコ講和条約締結時に、
サインの誤りを指摘した外交官。

終戦連絡横浜事務局は
1945年10月に事務局長に就任した鈴木九萬(すずきただかつ)が
占領終結(サンフランシスコ講和条約発効1952年4月28日)直前の
1952年(昭和27年)3月まで横浜連絡調整事務局長として日米間の調整にあたりました。
No.246 9月2日(日)90年後の横浜(加筆修正)
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/09/no2469290.html

2013年9月21日土曜日

暦で語る今日の横浜【9月21日】

横浜の年表から
 今日起った出来事をピックアップしました。
●1874年(明治7年)の今日
「第一銀行横浜支店が本町に設立された。」(歴史年表)
実は明治大正期の金融機関、特に銀行の合従連衡はめまぐるしいものがあります。
しっかり調べていませんが、合併や名称の変わらなかった銀行は皆無、無かったのではないでしょうか。
ここで登場した「第一銀行横浜支店」
正確にはこの時期、
「第一国立銀行」のことで官営でした。
明治6年〜明治29年まで存立します。
明治6年7月20日に開業免状が与えられ、同日開業します。
そして、民営化し
(株)第一銀行に変更します。(明治29年〜昭和18年)
→大正元年に(株)二十銀行と合併、
大正5年に(株)京都商工銀行と合併します。
昭和2年に(株)東海銀行と合併、
昭和6年に(株)古河銀行を分割買収
昭和13年に(株)渡辺銀行を買収、
昭和16年に(株)麻布銀行・(株)鉄業銀行を買収
昭和18から昭和23年まで(株)帝国銀行として営業します。
(株)帝国銀行は(株)第一銀行となり、
(株)第一勧業銀行に。
現在は(株)富士銀行と合併し
(株)みずほ銀行となっています。

※横浜市内にはかろうじて大正期以降の銀行建築が残っています。
(写真アップが間に合わないので一部だけ。後で貴重写真追加します)
現役が 三井住友銀行横浜支店
富士銀行横浜支店→東京藝術大学 大学院 映像研究科
横浜銀行本店→BankART1929に
中区本町3-28にある
 横浜銀行協会の旧横浜銀行集会所も1936年(昭和11年)に建った
 歴史的建造物の一つです。
※商工中金も無くなりましたね。
このテーマだけでかなりしっかり書けそうです。折を見て横浜の金融期間変遷史を現存する建物とからまでながらわかりやすくまとめてみます。

静岡銀行です。今ありません。
●1912年(大正元年)の今日
「ビリヤードの名手、ジョン・ロバート及びニューマンの来日が話題となる。」
【9月16日】の項でも紹介しましたが、
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/09/916.html
ビリヤードはスポーツです。決して“不良の遊び”ではありません。
が、私の世代では学校で“停学対象となる”遊びでした。でも良く江ノ島に行って遊んでいましたが。
話 戻します。記事の「ビリヤードの名手  ニューマンの来日が話題となる。」
というと ポール・ニューマン演じる若きハスラーの映画がヒットしました。
大正のニューマンとは全く関係ありません。あしからず。
ハスラー (Hustler)はハッスル (hustle) に由来するそうです。

●1987年(昭和62年)の今日
「横浜博覧会のマスコットマーク、ブルアちゃん(手塚治虫・粟津潔らの制作チーム考案)発表」
「ブルアちゃん」覚えていますか?
1989年(平成元年)に開催されたYES89のキャラです。
横浜博YES89関連は ブログでも取上げています。
No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/03/324.html
No.191 7月9日(火) 宙に舞う話(※おすすめ?)
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/07/no19179.html
No.431 「みなとみらい」地鎮祭開催
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/03/no431.html

●1991年(平成3年)の今日
「NO MORE ENCORE」リリース
作詞:阿木燿子
作曲:宇崎竜童
編曲:米光亮
歌 :内藤やす子
https://www.youtube.com/watch?v=30n26ZMJ-oU
中森明菜2003年のカバーアルバム「歌姫3 -終幕-」
https://www.youtube.com/watch?v=EzLT2KNdxHQ
全く雰囲気が変わる二人のハスキーソング。
※削除対象になるかも 聞き比べるならお早めに

●1991年(平成3年)の今日
 ’91上海国際労働者芸術祭に招かれて、岸田国士作、加藤衛演出「葉桜」を上演。
期間9月21日〜27日の一週間 この作品の演出家であり、横浜、日本のアマチュア演劇界の育ての親「加藤衛」さん翌年1992年(平成4年)3月19日胆管癌のため逝去しました。享年77才でした。
 21日 港北区富士記念館で葬儀・告別式が行われました。

●2013年(平成25年)の今日からです。
元町チャーミングセール2013秋
http://www.motomachi.or.jp/html/?refr=top

2013年9月20日金曜日

No.467 なんでここにこんな?(戸塚編)

東海道(国道一号線)下り路線、戸塚から原宿交差点に向かう途中、
左手のマンションの脇に「記念碑」らしきものがあります。
昔からマイカー、バス(の方が良く見える!)で気になっていました。
先日 気がついてから三十数年目に確認してきました。
ちょうどこの記念碑のあるあたりは 東海道戸塚宿を過ぎた馬の背になっています。
事前に「Google」でこのあたりを確認してみようとしたら
ストリートビューで ちょうど 見えない!なんで追い越し車線から撮影するかなー。
ストリートビュー手前だと見えます。
近づくと車がじゃま!
やっぱり実地検分しか無い!
戸塚駅から藤沢駅行きのバスに乗って、
「西横浜国際総合病院前」で下車します。
戸塚方面バス停
ありました、ありました。
「お軽・勘平の碑」でした。しっかり囲みもあり、丁寧に作られていることがわかります。
「碑石の由緒」には昭和四十六年七月とありました。
文学博士 松本亀松氏による由緒が記されています。
「伝統芸能研究者。1901年10月27日〜1985年4月。東京生まれ。東京高等工業学校中退。日大教授。1960年「狂言六儀の研究」で日大文学博士。72年定年退任。演劇学会理事。」
碑が建立されてから半世紀近くなりますがメンテナンスも行き届いています。
「お軽・勘平」って?
歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」四段目、塩谷(えんや)判官の家臣早野勘平と腰元お軽が、お軽の所への道行の途中で
「鎌倉を出てやうやうと、ここは戸塚の山中、石高(いしだか)道で足は痛みはせぬかや」と勘平が優しくお軽に問うところに因んでいるらしい。
鎌倉から落ち行くお軽・勘平のふたりが桜と菜の花が咲き乱れる戸塚山中で見せる美しく華やかな所作事なんですが、なぜここなのかが明記されていません。
ここは「桜と菜の花が咲き乱れる戸塚山中」なんですかね。
昭和50年代の地図には「日本石油」のガソリンスタンドがありました。
現在はマンション(?→未確認)が建っていますが、ガソリンスタンドがあった頃からこの記念碑はありましたから、スタンド脇に記念碑が設置されたことになります。
さらに疑問なのが「東京急行電鉄」が記念碑の賛助社と記されている点です。
「お軽・勘平」は、創作です。
【仮名手本忠臣蔵】の『道行旅路の花聟』(みちゆき たびじの はなむこ)は本来のストーリーではなく、後から追加されたものです。
幕末以降、二段目や三段目などに挿入されてきましたが、最近では「判官切腹」の場と五段目「山崎街道」の場」の間に挿入されています。

語り出しが「落人と、見るかや野辺に若草の」と始まるので、通称『落人』(おちうど)といわれています。
http://www.youtube.com/watch?v=L2_26wsZ4_A
内容は「おかる」と「勘平」が駆け落ちを決意し、おかるの故郷山城国の山崎へと目指す途中、そのあとを追いかけてきた「鷺坂伴内」が二人にからむ場面です。色彩豊かな所作事で、軽やかな清元を聞きながら華やかな気分が人気定番となりました。
舞台は「一面の菜の花の春景色、遠くに富士が見える」見事なシーンが拡がります。
歌舞伎舞台では、舞台装置は“どうみても”平地ですね。

周辺に観光資源、無いことはないのですが 孤立感ヒシヒシ。何か関連で活かす方法ないでしょうかね。戸塚宿尾根歩きコースですか  ね。