2013年8月31日土曜日

No.466 19世紀の「ハゲタカファンド」

長い間外国との交易が制限されていた日本が、
一気に開国へと舵を切ります。
外国事情は皆無ではなく、出島等を通じてかなり幕府関係者も理解していました。
【ミニミニよこはま】No.2 突然外交特区へ
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/11/no2.html
徳川時代を「鎖国」とは最近表現しなくなりました。
ところが、残念ながら経済制度の専門家が通商条約に登場する機会を失い、
徳川政権は、安政の五カ国条約で
通貨権を放棄してしまいます。幕末の最大の失策が行われます。
舞台は開港場の横浜でした。
このあたりに関しては
No.49 2月18日 過去に学ばないものは過ちを繰り返す
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/02/218.html
で、「ハゲタカファンド」の餌食となった幕末から明治の通貨権の政策ミスを簡単に紹介しました。
ここでは、幕末の翻弄された幕府の通貨政策について紹介します。
通貨の外貨との交換レート
現代日本も「為替レート」に一喜一憂しています。
金融ビジネスで、日本は今帰路にさしかかっています。
TPPは貿易ではなく“関税・金融”のグローバル化が焦点なんです。
「国際化」と「グローバル化」は違います!

話しを戻します。
開港時に発効した各国との通商条約で
幕末のドルショック、列強にとっては“ぬれ手に粟”のゴールドラッシュが訪れます。
徳川時代の貨幣制度は、金貨も銀貨も両方「本位貨幣」である「金銀複本位制」でした。
幕府の貨幣単位は「両・分・朱」といい、1両の四分の一が朱という四進法でした。鎖国でしたから、海外の金銀レートと全く関係なく独立して金銀のレートが決められていました。
開国するにあたって「通商条約」ですから、貿易の通貨レートをしっかり議論し決定しなければならないのですが…

1853年(嘉永6年)にペリーに開国を求められた時、その対応にあたった外国奉行が国政通貨に全く無知だったようです。
(国内にはしっかり通貨に詳しい役人もいたんですが、初期に外国との折衝には参加できませんでした)
1858年(安政4年)6月日米修好通商条約が結ばれます。
この条約の第5条に「外国の諸貨幣は日本貨幣と同種類、同量を以って通用すべし」
※「外国の諸貨幣は日本貨幣同種類の同量を通用すべし金ハ金、銀ハ銀と量目を以比較するをいふ、双方の国人互ニ物価を償ふニ日本と外国との貨幣を用ゆる妨なし日本人外国の貨幣に慣れざハ、開国の後凡壱ケ年の間各港の役所より日本の貨幣を以て亜墨利加人願次第引替渡すへし向後鋳替の為分量割を出すに及はす、日本貨幣は銅銭を除き輸出する事を得、并ニ外国の金銀ハ貨幣に鋳さるとも輸出すべし」
とあり、この条項に基づき、当時事実上の国際通貨として機能していたメキシコ銀を使ったドル貨幣(洋銀)と一分銀の交換比率を1ドル=3分と定めます。
これで日本は
約50万両分=(一両約8万円として400億円)
の金貨を国外に放出して、通貨危機が起ります。
現在ならIFMが乗り出す所ですが、
日本は流出し始めた直後に気がつきますが、すでに遅し!
各国は「条文」を楯に!!!適正レートに応じません。
少しずつ改正し、場当たり的に対応しながら
完全に「通貨権」を回復したのは
なんと 1897年(明治30年)3月までかかりました。

この無謀なレートを交渉で獲得したのが米国総領事タウンゼント・ハリスで、彼も最初、ぼろ儲けしますが 敬虔な聖公会信徒のハリスもさすがに気がとがめたことを日記に残しています。
解りやすく 説明しましょう。まず洋銀で一分銀に換えます。

次に その一分銀で小判に(国内レートで)交換します。



この図で解りますか?
日本の金銀交換率が海外の金銀交換率と大きく異なっていたため為替利益(暴利)を得た訳です。ぐるぐる「洋銀」を交換していくだけで3倍になる訳ですから底なしです。
1860年2月13日(安政7年1月22日)に横浜を出発したポーハタン号に乗った
万延元年遣米使節団は 日米修好通商条約の批准書交換のために米国に向かいましたが、一方で“既に始まっていた金流出の対策として”使節団に天才“小栗忠順”を加え通貨の交換比率の交渉を行います。
小栗は現地で
小判と金貨の分析実験をもとに堂々と日本の主張の正しさを証明しますが、条文を楯に比率の改定までは至りません。
ただこの交渉に関しては、多くのアメリカの新聞が絶賛の記事を掲載しもう少しメディア戦略に長けていたら“米国の正義感”に訴え条約改正が可能だったかもしれません。
(関連ブログ)
No.34 2月3日ポサドニック号事件で咸臨丸発進
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/02/23_03.html
No.262 9月18日 (火)咸臨丸の真実!
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/09/no262-918.html
No.359 12月24日(月)咸臨丸始末記2
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/12/no3591224.html
【番外編】善悪の彼岸
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/04/blog-post.html

2013年8月26日月曜日

No.465 三島と横浜、その縁を探る

2013年(平成25年)8月
猛暑日に縁あって三島市の中央部に源流を持ち
中心部を流れる「源兵衛川」下りを楽しみました。
静岡県東部に位置する三島市と約100Km離れた
横浜市のつながりを少し探ってみました。
「源兵衛川」
三島駅前にある「楽寿園」小浜池を水源として、三島市中心部を抜け最下流に位置する「温水池」までの約1.5キロ続く清流です。
住宅地、商業地の合間を縫うように流れる「源兵衛川」は、かつて“お金以外は全て捨てられていた”と言われた“どぶ川”の汚名を持つ川でした。この川に自生していた「梅花藻」も絶滅していました。
開花する梅花藻
今から四半世紀前に多くの市民と専門家の手によって再生活動が始まり
現在は 多くの市民が「源兵衛川」の恵みを楽しむ市民憩いの清流となっています。
今では「梅花藻」をはじめカワセミも観察できる大切な自然空間となっています。
http://www.kouenguide.com/search/water/genpei/

http://www2.tokai.or.jp/younet24310/repo9-1.html

(CFS)
Customer(顧客)
First(第一)
Store(店舗)
この言葉を社名に抱える株式会社CFSコーポレーションは、現在イオングループに属する年商1,000億円を越える中堅のドラッグストアチェーンです。
マツモトキヨシホールディングスの4,300億円には及びませんが、静岡・神奈川を中心に300店舗を展開しています。
私たちは
「ハックドラック」「ハックキミサワ」の名の方が有名になっています。

CFS=HACは
横浜市港北区新横浜2-3-19に本部があり
三島市広小路町13-4に本店がある
「横浜」と「三島」を繋ぐ企業です。
1923年(大正12年)7月
 石田初太郎が、個人営業の工業薬品等の小売店を横浜市南区横浜橋通商店街にて「イシダ」を創業します。
一方
1926年(大正15年)9月
 君澤安が、個人営業の薬局を静岡県三島市広小路町にて創業します。
 キミサワの名は、創業者の名であり、創業地の君澤郡の地名に由来します。
  近くには君澤山浄土宗蓮馨寺があります。

(合併)
この「株式会社クスリのイシダ」と「株式会社キミサワ」が
1993年(平成5年)8月21日に合併、株式会社ハックキミサワに商号変更します。
その後、HACとなり
2003年(平成15年)8月21日に株式会社ハックキミサワから株式会社CFSコーポレーションに商号変更となりました。
近くにある「ハック」が横浜と三島を舞台に展開する企業だと知っていましたか?
イオングループ傘下に入るに至っては 紆余曲折ありましたが、ここでは触れません。

(いっずっぱこ)
三島駅から温泉地「修善寺」まで、
三島市民の足であり観光の重要な路線となっている
「伊豆箱根鉄道駿豆線」が走っています。
「伊豆箱根鉄道駿豆線」は
1893年(明治26年)9月30日豆相電気鉄道株式会社として創業された120年の歴史をもつ鉄道会社です。
一方、小田原駅と南足柄市の大雄山駅とを結ぶ大雄山線も同じ伊豆箱根鉄道の路線です。
「伊豆箱根鉄道駿豆線」は利用者からは「いずっぱこ」という愛称で呼ばれています。
はて?
この「伊豆箱根鉄道駿豆線」が横浜とどうつながる?
確かに修善寺と横浜を直結する「JR踊り子号」が2本走っています。
それだけではありません。
「伊豆箱根鉄道駿豆線」の歴史に横浜は重要な舞台となりました。
設立発起人
豆相電気鉄道株式会社設立の立役者となったのが
甲州商人“雨宮 敬次郎”でした。
雨宮 敬次郎(あまみやけいじろう)
「天下の雨敬」「投機界の魔王」と呼ばれ、波瀾万丈の商人人生を歩みましたが、投資家であると同時に全国の鉄道開業に参画していきます。
軽便鉄道の雨宮とも呼ばれました。
雨宮のビジネスの出発点は横浜でした。ワンマンでインフラビジネスに進出した点は政商“高島嘉右衛門”と共通点が多くありますが
分岐点は高島と同じ「鉄道事業」でした。

甲斐国山梨郡牛奥村に生まれた雨宮 敬次郎は地元で一財産築き
1870年(明治3年)から1872年(明治5年)頃に横浜でビジネスを始めますが
生糸相場・洋銀相場で大失敗しスッテンテンになります。
1876年(明治9年)から1877年(明治10年)
アメリカ、ヨーロッパを外遊し、鉄道、製鉄、水道等のインフラビジネスの重要性を感じます。
製粉事業に成功し現在の「日本製粉株式会社」の基盤を作ります。
※日本製粉株式会社
日清製粉に次いで日本国内シェア2位
横浜工場 横浜市神奈川区千若町2丁目1
軽井沢の開発事業でこの地に植林をし軽井沢の森林を作ったことはあまり知られていません。
(鉄道経営)
雨宮が関わった鉄道事業をざくっと紹介します。
●中央本線の前身となる甲武鉄道
●現在の西武国分寺線となった川越鉄道
●北海道炭礦鉄道の取締役
●大師電気鉄道の発起人→大師鉄道は
 現在の京浜急行です。
●東京市街鉄道の会長
●1905年(明治38年)には
 江ノ島電鉄社長に就任しました。
●横浜線にも関係があります。
No.69 3月9日 事業失敗鐵道、横浜線物語
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/03/39.html


てなちょっとこじつけっぽいネタでしたが
三島は素敵な街でした。
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2013年8月18日日曜日

No.464 昭和5年頃の横浜

よく歴史書や教科書では、時代区分をします。
横浜史を区分する際、
最大の分岐点が「開港場」ができる幕末期です。
開港から一世紀半の歴史で、
横浜は幾つもの試練の時期がありました。
横浜近代史の中で、今回は震災復興期の昭和初期に注目してみました。
復興ビジョンが絵はがきになっています。
中でも昭和3年から5年頃の横浜の姿をざくっと追ってみます。
※詳細もいずれまとめて発表する機会があると思います。
(鉄道の時代)
横浜の鉄道網が充実したのが昭和期です。
神中鉄道、東横線、京浜電気鉄道、湘南電気鉄道
そして横浜市電がレール網を最も充実させた時代です。

1926年(大正15年)
 東京横浜電鉄が丸子多摩川駅(現・多摩川駅)〜神奈川駅間を開業します。
 神中鉄道が星川駅(現上星川駅)〜厚木駅間を開業します。
 鶴見臨港鉄道が浜川崎駅 - 弁天橋駅間を開業します。
昭和に入り
1927年(昭和2年)
 神中鉄道が北程ヶ谷駅(現・星川駅)まで延伸します。
 市電浅間町車庫開設。
1928年(昭和3年)
 東横線が神奈川駅〜高島駅(後の高島町駅)間を開業します。
 ※神奈川駅が横浜駅として移転します。 
 鶴見臨港鉄道が浜川崎駅〜扇町駅間を開業します。
 市営バスが開業します。(生麦車庫・麦田車庫完成)
1929年(昭和4年)
 神中鉄道が北程ヶ谷駅(現・星川駅)から西横浜駅まで延伸します。
1930年(昭和5年)
 京浜電気鉄道が高輪駅〜横浜駅間を開業します。
 ※「京浜電気鉄道 横浜駅は、現在の臨海セミナー等予備校が並ぶあたりです)
 一方、
 湘南電気鉄道が黄金町駅〜浦賀駅間、金沢八景駅〜湘南逗子駅間で営業を開始します。
 鶴見臨港鉄道も全線電化し、鶴見仮停車場〜弁天橋駅間を延伸開業します。
1931年(昭和6年)
 神中鉄道が西横浜駅〜平沼橋駅間を開業し
 湘南電気鉄道も桜木町接続を目指し日ノ出町駅まで延伸しますが、
 京浜電気鉄道がゲージの違いを乗り越え
  日ノ出町駅まで延伸された湘南電気鉄道と接続します。
1933年(昭和8年)12月27日にようやく神中鉄道が横浜駅に乗り入れます。
◇市電の時代
ここでは詳細を掲示しませんが、昭和初期に市電網の大半が開業します。横浜市内のアクセス網が一気に整備されます。
ちょうどこの頃、横浜市は周辺町村を合併し市域も一気に拡大します。
1927年(昭和2年)第3次市域拡張

 ■久良岐郡
 屏風浦村、大岡川村、日下村
 ■橘樹郡
 鶴見町、城郷村、大綱村、旭村、保土ケ谷町
 ■都筑郡西谷村を編入します。
 ※区制が施行され
  市域が5区に分けられます。
  横浜最初の5区が誕生します。
   ※鶴見区、神奈川区、中区、保土ケ谷区、磯子区
1936年(昭和11年)第4次市域拡張
1937年(昭和12年)第5次市域拡張
1939年(昭和14年)第6次市域拡張

(復興事業)
震災復興でインフラが整備されていくに伴い 民間のビル建設ラッシュが起ります。住宅政策では「同潤会アパート」が作られていきます。
 例えば 1930年(昭和5年)の建造物は
都南ビル(旧都南貯蓄銀行本店)(静岡中央銀行)
No.352 12月17日(月)市民の財布を守った都南
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ジャパンエキスプレスビル
同潤会アパート 多数
No.376 1月10日(木)中島敦のいた街
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横浜競馬場一等観覧席遺構
インペリアルビル
No11 1月11日(水) KAAT開場
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綜通横浜ビル
横浜地方裁判所・簡易裁判所
No.50 2月19日 横浜地裁で注目の公判
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ベーリックホール
No.167 6月15日(金) 自然、単純、直裁、正直、経済的
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/06/no167615.html
東(あずま)隧道
松屋横浜支店
No.30 1月30日 MATSUYA GINZAのDNA
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※氷川丸もこの年に横浜船渠株式会社で竣工しました。
1930年(昭和5年)は震災復興事業の一つ「公園整備計画」の「神奈川公園」と「神奈川会館」の開園式が行われた年です。
 No.101 4月10日 薄れ行く災害の記憶
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/04/410.html

(御大典記念)
昭和天皇の即位の礼・大嘗祭が1928年(昭和3年)11月6日に行われました。昭和天皇即位を祝い、全国で様々な形で祝賀が行われます。
その一環として記念碑、記念造営が行われます。横浜市内にも多くの御大典記念に関係する記念碑等が残されています。
■芝生浅間神社では、1928年(昭和3年)御大典記念事業として社殿が御造営されます。
■横浜市立市場小学校では1928年(昭和3年)御大典記念として校旗を作成します。
■伊勢山皇大神宮の太鼓場(?)は1928年(昭和3年)に御大典記念として建設されます。

(観艦式)
横浜港で昭和に入り集中的に「観艦式」が開催されます。
No.285 10月11日(木)武装セル芸術
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/10/no2851011.html
日本の観艦式は明治元年に始まり戦前は18回実施されました。
第一回は大阪天保山沖で行われ、以降“横浜沖”が最も多く9回、次いで6回“神戸沖”で実施されました。
昭和期になり観艦式は6回、内4回が横浜沖で実施されます。
1927年(昭和2年)10月30日、横浜沖。
1928年(昭和3年)12月4日、横浜沖。
1930年(昭和5年)10月26日、神戸沖。
1933年(昭和8年)8月25日、横浜沖。
1936年(昭和11年)10月29日、神戸沖
1940年(昭和15年)10月11日、横浜沖。

(磯子八幡神社)
1930年(昭和5年)磯子八幡橋近くにある「八幡神社」にある御大典記念碑が建立されます。

御大典記念
正三位 勲二等 有吉忠一
この記念碑は、碑の上部に鉄の玉が飾られています。
文献や近所の方の話しでは
“昭和の代になり、5年6月には、御大典記念碑が建ちました”。
“漁師の人たちが奉納した大きなブイ(浮標)が石塔の上にのせられています”
「機雷の外側という話もあります」
ここに名が出ている有吉忠一氏はちょうどこの記念碑が作られる直前の1930年(昭和5年)4月11日に市長として貴族院議員に勅撰されます。
その祝いも兼ねたのでしょう。
裏側にはこの記念碑建立に関わった方々の名が掘られています。
禅馬鉄工所、當所 伊達鉄鋼所
おそらく この鉄球を作った所と推理すると
「機雷」ではなく「ブイ」が妥当なのではないでしょうか。
あくまで推論ですが
 観艦式には 数多くの「ブイ」が必要とされるので、その製造を地元の鉄工所が請け負い、その御礼も含めここに奉納したのではないでしょうか。

(この時代)
昭和初期の横浜は、震災から立ち上がりつつある中
昭和恐慌、急激な円安デフレのまっただ中にありました。
復興資金として借り受けた米国債の支払いに苦慮します。
こんな時に
1929年(昭和4年)8月19日
飛行船ツェッペリン伯爵号が 急遽計画を変更して
横浜上空に現れます。
かたくなに進路変更を拒んだ「ツェッペリン伯爵号」がなぜ?
横浜を上空から視察したのか?世界の(特に米国の)メディアを乗せたこの
飛行船の目的は 何だったのでしょう。
No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命
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2013年8月16日金曜日

No.463 高島嘉右衛門 風聞記

北海道と横浜を結ぶ政商「高島嘉右衛門」を追いかけている内に、不思議な人間関係に辿り着きました。
今日は 想像の領域!のセミフィクション仕立てです。

賀茂真淵、本居宣長と並ぶ国学者、平田篤胤(ひらた あつたね)。
その考えは尊皇攘夷の支柱となり、倒幕後の明治維新変革期の原動力ともなりました。
幕府の暦制を批判したことで江戸から追放された人物です。
平田篤胤は
1776年10月6日(安永5年8月24日)に生まれ
1843年11月2日(天保14年閏9月11日)郷里秋田で亡くなります。
彼が江戸処払いを命じられ、1841年(天保12年)故郷秋田に蟄居するまで京橋三十間堀に居を置いていた頃
近隣の子供達を集め一種の英才教育をしていた時期があります。
ちょうどその頃 近所(三十間堀八丁目)に暮らしていたのが
薬師寺嘉衛門一家です。この薬師寺家六男が
後に高島嘉右衛門と名乗ります。
嘉右衛門は 易断家としても有名で自伝によれば獄中で学んだとありますが、
そのキッカケとなったのは 
平田篤胤か その養子となり優秀だった平田 銕胤(ひらた かねたね、1799年12月31日(寛政11年12月6日)〜1880年(明治13年)10月25日)ではないか?と推理しています。

高島 嘉右衛門は1832年12月24日に生まれます。
平田 銕胤は1824年25歳の時に篤胤の養子となります。
銕胤は嘉右衛門の親くらいの年齢ですから 嘉右衛門は彼から易学を学んだのかも知れません。
これだけでは ただ単に 時代と育った場所が近いというだけです。
ところが 意外な所で この点と線が結ばれたのです。

舞台は 一気に北海道に移ります。
北海道の西南海岸に“せたな町”という小さな街があります。平成に入って市町村合併する前は“瀬棚町”と漢字で表記しました。
この“瀬棚町”を もしかしたら テレビか新聞で知っている方も多いかもしれません。過疎地における予防医療の実践で多くの報道があった村上智彦医師で有名になった町で、彼が一時期勤めていたのが「荻野吟子記念瀬棚町医療センター」です。
ここでは村上医師ではなく記念病院名となった「荻野吟子(おぎのぎんこ)」がキーワードになります。
■荻野吟子
荻野吟子は日本における近代医学を学び女医となった第1号です。北海道久遠郡瀬棚町で開業し10数年この瀬棚地域に貢献した記念すべき人物ですが、その人生は波瀾万丈そのものでした。 
荻野吟子の功績をしのび 1967年(昭和42年)北海道百年を記念して女史の顕彰碑が開業地跡に建てられます。
1851年4月4日(嘉永4年3月3日)武蔵国幡羅郡(現在の埼玉県熊谷市)に生まれ

1913年(大正2年)6月23日東京府本所区小梅町の自宅で亡くなります。
62歳でした。
彼女の足跡を簡単に追います。
1870年(明治3年)19歳のとき夫からうつされた淋病がもとで離婚し、治療のため上京します。ところが、婦人科治療を行った医師は全て男性医師だったため“屈辱的な体験”をします。そこで荻野は女医を志します。
1875年(明治8年)24歳で東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)一期生として入学します。
1879年(明治12年)首席で東京女子師範学校卒業し医学を習得するために私立医学校・好寿院に特別に入学を許されます。その時も男子学生に様々ないじめにも遭いながら優秀な成績で卒業します。
当時 医師資格受験が許認可制だったため、
荻野吟子は東京府、埼玉県に医術開業試験願を提出しますが
ことごとく“却下”されてしまいます。
1884年(明治17年)9月多方面への働きかけが実り医術開業試験前期試験を受けることができます。他に3人受験者がいましたが吟子だけ合格します。
1885年(明治18年)3月34歳で後期試験に合格し同年5月湯島に「産婦人科荻野医院」を開業します。近代日本初の公許女医の誕生です。
1886年(明治19年)田口卯吉らとともにキリスト教の洗礼を受けます。
さらに荻野吟子は自ら波瀾万丈の人生を選びます。
1890年(明治23年)39歳の時13歳年下の同志社の学生、志方之善(しかたゆきよし)と周囲の猛反対を押し切り再婚します。
夫、志方之善が理想郷をつくるという信念から北海道へ渡る決意をし
1891年(明治24年)単身渡道します。
キリスト教徒のための理想郷を求めて志方之善の他、丸山要次郎らが神丘地区(イマヌエル)に調査に入り、

1893年(明治26年)に会衆派と日本聖公会の教徒約60戸が入植します。
1896年(明治29年)吟子も診療所を閉鎖し之善のいる神丘地区(イマヌエル)に入植しますが、諍いを嫌った吟子は海辺の瀬棚合津町に移転し診療所を開業し夫、志方之善と距離をおきます。
※当時 今金町は一種のゴールドラッシュで、砂金、メノウ、マンガン、マンガン採掘採集地として入植者が殺到しますが同時に争いも絶えない時代でした。
志方之善はマンガン採掘にも失敗し京都の同志社に戻り神学を学び、牧師として北海道浦河教会に赴任することになります。
1905年(明治38年)志方之善は敗残の思いの中、病死します。
1908年(明治41年)吟子は帰京するまでこの地瀬棚町で診療活動を行います。
ここまで「荻野吟子」の簡単な生涯を追ってきましたが、どこに高島 嘉右衛門との接点があったのでしょうか?

吟子は医術開業試験願を提出しますがことごとく“却下”されてしまいます。
「…願書は再び呈して再び却下されたり。思うに余は生てより斯の如く窮せしことはあらざりき。恐らくは今後もあらざるべし。時方に孟秋の暮つかた、籬落の菊花綾を布き、万朶の梢錦をまとうのとき、天寒く霜気瓦を圧すれども誰に向かってか衣の薄きを訴えん。満月秋風 独り悵然として高丘に上れば、烟は都下幾万の家ににぎはへども、予が為めに一飯を供するなし。 …親戚朋友嘲罵は一度び予に向かって湧ぬ、進退是れ谷まり百術総て尽きぬ。肉落ち骨枯れて心神いよいよ激昂す。見ずや中流一岩の起つあるは却て是れ怒涛盤滑を捲かしむるのしろなるを。」(せたな町HPより)
万策尽き、最後の手段として外国での資格取得も考えていた荻野吟子に救いの手を差し伸べたのが、
高島嘉右衛門です。
嘉右衛門と荻野吟子の接点は不明ですが、
当時の医師資格に関する政府トップ衛生局局長「長与専斎」との接点を
嘉右衛門は国学者で政府に発言力のある
井上 頼圀(いのうえ よりくに、天保10年2月18日(新暦1839年4月1日)〜大正3年(1914年)7月4日)に依頼します。
井上 頼圀は国学者で文部省、宮内省に出仕し、私塾神習舎で教えた教育者です。
1882年(明治15年)には松野勇雄らと皇典講究所(のち國學院)を設立します。
國學院教授、女子学習院教授を務めました。

ここで、冒頭の推理が登場します。
国学者、井上 頼圀は
平田 銕胤の弟子にあたります。
高島嘉右衛門より7歳年下の井上 頼圀は、平田 銕胤を介して親交があったのではないでしょうか。
荻野吟子が 北海道久遠郡瀬棚町で医療活動を行いながら過ごした10年
1898年(明治31年)から1908年(明治41年)の頃
高島嘉右衛門は
1889年(明治22年)「北海道炭礦鉄道会社」に出資
1892年(明治25年)に二代目社長
1906年(明治39年)10月1日に国有化。
この時期に、荻野吟子と高島嘉右衛門との交流が 北海道で無かった方が不自然ではないでしょうか。
山師、政商 かなりダーティなイメージのある「高島嘉右衛門」ですが、
単純に腹黒い人物像では解けない部分も多く、
人間 高島嘉右衛門の実像が 今後の研究であぶり出されていくことを
大いに 期待するところです。
●今回は 殆ど横浜とは関係ありませんでしたが、
 点と線がつながった感動をそのまま掲載しました。
 次回から また横浜ローカルに戻ります。

(余談)
高島嘉右衛門のもう一つの謎が
時の総理大臣 伊藤博文と 姻戚関係にありながらも
その関係が 易経で伊藤の暗殺を予言した!という話ばかりです。
伊藤博文の汚れ役を一部担っていたとも考えられます。
幕末明治はまだまだ 謎だらけです。

No.462 北海道と横浜を結ぶ点と線2

横浜と北海道の大地を点と線で結んだ男がいます。
おそらく、北海道と最も因縁のある横浜商人でしょう。
彼の名は
高島嘉右衛門(たかしまかえもん)
今日は “北海道と横浜を結んだ高島嘉右衛門”を紹介しましょう。
神奈川区にある高島嘉右衛門自宅近くの碑
北海道に限らず八面六臂の活躍をした嘉右衛門は、横浜・東京のインフラ関係、港湾関係に多く関わります。南は佐賀鍋島藩、東北の南部藩、静岡、愛知 他全国を走り回ります。殆ど鉄道のない時代にです。
中でも北海道では多方面で活躍し多くの足跡を残しています。
■北海道の高島嘉右衛門
2006年(平成18年)4月に廃線となった「北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線」に「高島駅」がありました。この「高島駅」は、横浜市西区にある「高島駅」同様、高島嘉右衛門に因んでつくられた駅です。駅名としては1910年(明治43年)9月22日国有鉄道網走線の駅として開業した「高島駅」の方が歴史ある駅でした。
皮肉にも東横線高島駅(後に高島町駅)も2004年3月に廃止されました。
北海道の「高島駅」は廃止される前に一度訪れたかった場所ですが、残念ながら間に合いませんでした。
何故、北海道に高島駅?
北海道の十勝川流域、帯広市の北東に位置する中川郡池田町高島は
明治中期に高島嘉右衛門が開いた「高島農場」によって発展した町です。鉄道インフラに強かった高島は鉄道敷設を念頭に入れながら農場周辺の道路整備を行います。
「高島農場」
大正11年の地図でも確認することができます。
農場の横には学校も開校しますが、学校は池田町立高島小学校として現在も残っています。
実は高島嘉右衛門の北海道ビジネスは明治になって早々から始まります。
1874年(明治7年)には横浜港〜函館港間の定期航路を開きます。
経営的には大失敗で採算が合わずに翌年には中止になってしまいますが嘉右衛門は諦めていませんでした。
その後も北海道でのビジネスチャンスを狙っていました。
ちょうどこの頃、新潟県三条町から二人の青年が北海道札幌に小間物店を開きます。今井藤七と同郷の高井平吉です。
彼らは苦労しながらも低価格と誠実さ・勤勉さが評判となり地域一番店となり1874年(明治7年)には店名を「丸井今井呉服店」とします。
この「丸井今井呉服店」が後の北海道老舗デパート「丸井今井」に育ちます。創業期、高島嘉右衛門とも交流があり。嘉右衛門の北海道ビジネスとも深く結びついていました。
※「丸井今井」は残念ながら近年経営破綻し三越伊勢丹ホールディングス傘下となりました。
精力的に北海道のビジネスチャンスを求めた嘉右衛門は、
1889年(明治22年)「北海道炭礦鉄道会社」に出資し経営参加します。
その後、創業者堀基の後を継ぎ1892年(明治25年)二代目社長となります。(後に四代目社長にも)
※「北海道炭礦鉄道会社」 手宮(小樽市) - 幌内(三笠市)間をはじめ、現在の北海道旅客鉄道(JR北海道)函館本線の一部

■ワンマン経営の果て
高島嘉右衛門のビジネススタイルは、典型的なワンマン経営でした。明治期の様々なビジネスに参画しますが、全て後継者育成をしなかった経営者でした。
成功したもの失敗したもの全て自分で切り開き自分で責任をとっていくタイプでした。同じワンマン経営だった岩崎弥太郎とは同じビジネスチャンスをつかみながら全く対照的な人生を歩むことになります。

もう一つ、高島嘉右衛門を巡る 面白いエピソードが北海道にあります。
 次回は 半分想像!フィクションも含めて 高島嘉右衛門の謎に迫ります。

(関連ブログ)嘉右衛門は話題満載。いっぱいあります。

No.28 1月28日 高島嘉右衛門と福沢諭吉(加筆)
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/01/128_28.html

No.386 清水の次郎長、横浜に通う
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/01/no386.html

No.204 7月22日 (日)一生を世界一周に賭けた男
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/07/no204-722.html

No.61 3月1日 成田山横浜別院延命院復興
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/03/31.html

No.208 7月26日 (木)ザ・みなとの劇場
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/07/no207-725.html

No.365 12月30日(日)横浜初の発電所
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/12/no3651230.html

No.397 横浜「座・樓・亭」探し
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/02/no397.html

No.197 7月15日(日)老舗ホテルを支えた横浜
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/07/no197715.html

No.391 謎解き馬車道
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/01/no391.html

他は省略
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2013年8月15日木曜日

No.461 北海道=横浜を結ぶ点と線

北海道と横浜を結ぶ点と線、
幾つかご紹介しましょう。
北海道(ほっかい・どう)と使っていますが
他の都府県とは少し使われ方が違いますね。
「東京」「大阪」「神奈川」といったように略して表現することがありません。
「北海道」は「ほっかい」と「どう」ではなく
「ほっかいどう」と、一体となって歴史を歩んできました。
(北海道)
明治2年8月15日が北海道の記念日です。
1869年6月27日(明治2年5月18日)戊辰戦争の最後の戦場ととなった“箱館”の戦争が終結します。この箱館戦争の影に「咸臨丸」の悲劇があり
横浜・静岡そして函館を結ぶ物語を紹介しました。

No.262 9月18日 (火)咸臨丸の真実!
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/09/no262-918.html
1869年9月20日(明治2年8月15日)
 明治新政府は太政官布告によって蝦夷地に「北海道」の名前を与えます。
 また北蝦夷地を「樺太」と改名します。
命名に際しては六つのネーミング案が提案されます。
 1 日高見
 2 北加伊
 3 海北
 4 海島
 5 東北
 6 千島
この中から  2の「北加伊(ほっかい)」をベースに
律令制の五幾七道(東海道、東北道、北陸道、山陰道、山陽道、西海道、南海道)にのっとり「北海道」の字をあてて採用されました。
「北海道」は、「道」と一体として現在まで使用されています。
この地図解説は次号で詳しく
(冒険家の北国)
江戸時代、正確な形で蝦夷地の地図を測量し制作した人物といえば
「伊能忠敬」と「間宮林蔵」ですね。
間宮林蔵は1799年(寛政11年)幕府の命で蝦夷地に20年以上滞在し、
蝦夷地、千島、樺太の測量にあたります。 
最大の成果は、1809年(文化6年)に間宮海峡を発見したことです。
何故か?
 ロシアの南下に対し領土の保全に苦慮、躍起になっていた幕府にとって蝦夷の地がロシアと陸続きではないことが判ったことが重要な国土防衛情報となったからです。
同時期、オランダ出島経由で日本に入ったシーボルトも
北方に地勢に重大な関心をよせていました。
シーボルトは林蔵の樺太の地図を複製し、海外に持ち出し林蔵の樺太の地図(複製)が世界地図にのるようになります。結果
アイヌ、和人の生活用具など、文化遺産、蠣崎波饗の夷酋列像の絵など収集した北海道の文化資産の存在や、間宮林蔵 本人の名が世界に知られることになります。
No.458 相摸のもののふは杉田を目指す?
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/07/no458.html
※間宮林蔵は終生 独身だったと伝えられていましたが
 1813年(文化10年)上川のタナシ(現・当麻スカイパーク付近)でアイヌ女性アシメノコを見そめ、翌年の文化11年に娘ニヌシマツが生れます。
子孫の(間見谷 喜昭)さん(72歳)が平成14年、林蔵の五代目に当ることがわかったそうです。

No.212 7月30日 (月)ある“日本人”の学究心
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/07/no212-730.html
スコットランド人の医師Neil Gordon Munro(ニール・ゴードン・マンロー)は、横浜三ツ沢貝塚研究で本格的な発掘調査をした人物ですが
1933年北海道に渡り、平取町二風谷(にぶたに)にマンロー邸を建てて医療活動を行いながらアイヌ文化を研究し保存に尽力します。
アイヌ民具などのコレクションの他、イオマンテ(熊祭り、1931年製作)などの記録映像を残したことは貴重な資料となっています。

さて、横浜と北海道の点と線
これは イントロに過ぎません。

さらにつづく 北海道と横浜を繋ぐ点と線は 次回に

2013年8月2日金曜日

【再開のお知らせ】

2013年8月13日(火)酷暑は続きます。
世の中は“お盆休み”ですね。
私は、8月2日(金)に目の不具合を感じ近くの眼科医で
「緊急入院」を告げられ 約10日間入院しておりました。
この間、雪隠詰めでしたので いろいろ思いを巡らせてきました。
ブログの【再開です】
現在仕込み中のネタを少し予告しておきます。

【北海道を繋ぐ点と線】プロローグ
横浜が育てた多くの商人達からベストを選ぶとしたら?
視点で変わりますが
波瀾万丈といえば
中居屋 重兵衛と高島嘉右衛門でしょう!
さらに加えれば田中平八ですが、中居屋 重兵衛と高島嘉右衛門の二人を越える商人はいないでしょう。
共に、一時期“横浜市”では不人気のようでした。中居屋 重兵衛は目下基礎資料を読んでいる途中です。
今日は、「高島嘉右衛門」から横浜が繋ぐ“点と線”のプロローグとします。

彼に興味を持ったのは、今から三十年位前でした。
高島嘉右衛門は、業績の割に横浜で“無視”されている感じがしたからです。
近年、高島嘉右衛門の遺族から(ようやく)資料が公開されました。
※現在開港資料館で整理分析中です。
中居屋 重兵衛は謎だらけであまり横浜開港史に登場しませんが、彼の出身地群馬ではかなり研究されています。
一方中居屋 重兵衛に対し、高島嘉右衛門は謎よりあまりに活動領域の広い史実に
研究者も二の足を踏んだのかもしれません。
また、一時期 社会問題にもなった「高島暦」の創始者だったからでしょうか?
彼 高島嘉右衛門は 例えば清水の次郎長、佐賀鍋島藩主、福沢諭吉、伊藤博文らと関係がありました。
 伊藤博文とは最終的に姻戚関係になります。
北は北海道とも深い関係があります。
次号の「ブログ」はこの辺から始めたいと考えています。
幕末明治を生き抜いた政商「高島嘉右衛門」にとって多角事業のほんの一部でしかなかった「北海道」での事業から見えてくる小さな物語を紹介しましょう。
北海道もまた 横浜に似た 幕末以降波瀾万丈の開拓史を残した地です。
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No.460 横浜と福島をつなぐもの

ひらめきは素晴らしい!でもどう表現したら良いのか。
時々出会うラッキーなネタなんですが
料理ができない歯がゆさが先立ってしまいます。
今日は 言い訳から始まります。
かつて、福島出身の震災復興に関し優秀な“テクノラート”が居ました。
堀切 善次郎(ほりきり ぜんじろう)
1884年(明治17年)9月2日福島県飯坂温泉の豪農豪商の堀切家に生まれた堀切 善次郎は、東京帝国大学卒業後内務省に入り法律、技術官僚として事務官・監察官・参事官・書記官を経て都市計画局長・土木局長など歴任します。
その後、渡欧(1919年大正8年〜1921年大正10年)し
ドイツで革命後のワイマール憲法の選挙法を調査研究し帰国します。
最近某財務大臣発言で物議を醸した「ワイマール憲法」ですが
それまで婦人参政権が無かった日本の普通選挙制導入に大変尽力された政治家です。
※婦人参政権の実現は戦後になりますが、彼の手で法案が提出されます。
堀切邸
天井のカーブをもたせる贅!
一方、堀切 善次郎は、都市政策にも明るく
震災直後から復興計画に関わることになります。
その結果、復興局長官に抜擢された清野長太郎知事の後任として
1925年(大正14年)震災で焦土化した神奈川県復興のために知事に赴任します。
当時の有吉忠一横浜市長と二人三脚で精力的に復興施策を実施していきますが、
前任の神奈川県知事だった復興局長官“清野長太郎”が就任中に急死します。
そのため、堀切は清野長太郎の後任として 着任早々1926年(大正15年)復興局長官に任命されます。さらに1929年(昭和4年)には13代東京市長となり
横浜と東京で 復興の優先に関して“ライバル関係”になります。
東京政財界からは 横浜に限定されていた“国際港”としての独占権を廃止する“東京開港運動”が起ります。

ここで、横浜市長「有吉忠一」と「堀切 善次郎」は、
同じ神奈川で以前タッグを組みましたが、
その後全く利害を異にする立場で争うことになります。

No.128 5月7日 今じゃあり得ぬ組長業!?
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/05/no12857.html

国策を理由に1941年(昭和16年)5月20日“東京港が開港”します。
東京開港運動は大正期に高まり
 昭和早々からは強い政治運動となります。
横浜港にとって“致命傷”だった“東京開港”が戦争直前までもつれこんだ背景には
もしかしたら堀切 善次郎の横浜への思いがあったのかもしれません。
こればかりは判りません。

横浜と福島は
野口英世(のぐちひでよ)、星一(ほしはじめ)のエピソードが劇的ですが
この堀切 善次郎と横浜も 静かなる因縁があったかもしれません。

No.387 謎解き野口英世
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/01/no387_24.html
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