2013年6月28日金曜日

No.455 東海道の横浜を歩く

「横浜道」に引き続き横浜の街道「東海道」を紹介します。
東海道と言えば、江戸時代に整備された徳川幕藩体制を支えた物流を支えた主要街道の一つです。
横浜エリアの東海道を何回かに分けて歩いてみましたので
紹介します。

【鶴見市場から生麦】
横浜東海道の旅は「鶴見市場」からスタートします。
京急鶴見市場駅から北方向に商店街を抜けると「熊野神社」にぶつかります。
鶴見熊野神社
横浜市鶴見区市場東中町9〜21
殺風景な境内のわりに派手なHPがあります。
●「横浜市立市場小学校発祥の址」の碑
●加舎白雄と大島蓼太の句碑(飯田九一 選と揮毫)
この「熊野神社」前の通りが旧東海道です。
No.264 9月20日(木)「鼾かく人を流罪す月今宵」
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/09/no264920.html

鶴見川橋を渡りますが、鶴見川に鶴見川橋の名からもこの街道の歴史を感じます。
右手に「鶴見神社=杉山神社」があり街道の鎮守の役割をもっていることがわかります。
京急「鶴見駅」の線路下を(抜けられませんが)通り、
ベルロードつるみ・鶴見銀座商店街を抜けます。
鶴見線の架橋をくぐり
鉄道レトロの「国道駅」前から
生麦魚河岸通りを通ります。
【番外編】生麦、旧東海道を歩く
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/08/blog-post.html
No.383 【生麦界隈】横浜史を生麦で体験
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/01/no17.html

【子安から神奈川】
国道15号線がほぼ東海道をトレースしています。
入江川派川(海岸線に平行している運河)
ここが子安から神奈川が最も昔のままの海岸線をイメージできます。

No.216 8月3日 (金)この道は金港に続く
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/08/no216-83.html
東神奈川は横浜市内最初の宿場町です。
神奈川県内最大の宿場町でもありました。

神奈川宿に関しては
別にテーマを立て 紹介します。

【神奈川から保土ケ谷】
横浜中心部に入ってきました。
東海道が 海に別れを告げ、内陸に入っていく分かれ目が
青木橋あたりです。
No.452 横浜道から開港当時を探る
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/06/no452.html
No.453 「横浜道」を歩く (前編)
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/06/no453.html
No.454 「横浜道」を歩く (後編)
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/06/no454.html
鶴屋町から保土ケ谷までは 旧東海道の道筋が残っています。
八王子街道への別れ道「追分」を過ぎると
横浜賑わい商店街ベスト3に入る
洪福寺松原商店街です。
No.414 競争共栄商店街
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/02/no414.html
ここまで渡ってきた川が
鶴見川
入江川
滝野川
そして
帷子川と今井川の合流地点が
相鉄線「天王町」駅前です。
東海道は今井川に沿って保土ケ谷宿に入ります。
JR保土ケ谷駅前を過ぎ、東海道・横須賀線の踏切を越えると
保土ケ谷宿 本陣跡に出ます。
この保土ケ谷宿からは 金澤古道が分岐しています。

【保土ケ谷から品濃町】
横浜市内の東海道最大の難所です。
何度来てもこの坂の急傾斜前で躊躇します。
急坂「権太坂」です。

ここを越えると「境木」です。
武藏の国と相摸の国の国境(くにざかい)です。

No.253 9月9日(日)子規、権太坂リターン
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/09/no25399.html

No.339-2 12月4日(火)越すに越されぬ国境(くにざかい)
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/12/no339-2-124.html

【番外編】 1月17日(木)横浜は坂ばかり
横浜は坂が多い街ですが、中でも権太坂は厳しい!!!
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/01/no17117.html

かつて栄えた!
境木商店街も火が消えつつありますが
ここは元気です。
創作和菓子処 栗山

ご当地もの たくさん買ってきました。

「男爵さま」が最新の作品だそうです。いけまっせ!

新製品を創る努力と工夫が大切ですね。
http://www.wagashi-kuriyama.co.jp

境木の峠を越えると
東戸塚に入ります。
この街は 1980年(昭和55年)10月1日に横須賀線の新駅が開業し
日立製作所関連企業、西武等による開発が行われ新しい街が生まれました。
※日本現役最古の鉄道トンネル「清水谷戸トンネル」は
 東戸塚駅と保土ケ谷駅間にあり東海道下りルート最初のトンネルです。
旧東海道には品濃一里塚跡を示す碑があります。

【品濃町から戸塚】
東戸塚から柏尾川支流に沿って旧東海道はつながっていきます。
戸塚ネタはこのブログでもかなり取上げています。
No.142 5月21日 戸塚は鎌倉?(加筆修正)
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/05/no142521.html
No.306 11月1日(木)戸塚駅東口小史
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/11/no306111.html
No.351 12月16日(日)戸塚踏切をなんとかしろ
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/12/no3511216.html
No.48 2月17日 さよならYDL
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/02/217ydl.html
この先、藤沢宿までの旧東海道は踏破していません。
湘南に抜ける時は、戸塚駅前から柏尾川にそって川ルート下りばかりで
実は もう一つの 山越えが 待っています。
「原宿」あたりのルートです。
この区間は 今年中に踏破する予定です。

※藤沢宿から平塚宿までは徒歩踏破しています。
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2013年6月26日水曜日

【番外編】京都の戦乱!

第二次世界大戦で空襲を受けることが無かった「京都」
平安の時代から 大災害を受けること無く現在にその佇まいを残している!?
と思ったら 大間違いでした。
都市にとって火災は致命傷です。
幕末明治、横浜でも何回か大火事で街の機能が麻痺します。
一番大規模の火災は「横浜大空襲」ですが、関東大震災の出火類焼も大きな被害をもたらしました。歴史的には横浜が開港によって大都市への急発展を遂げる中、居留地の近くで起りました。
No.294 10月20日(土)防災道路を造れ!
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/10/no2941020.html

No.219 8月6日 (月) チェックメイトキング
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/08/no219-86.html
役所も焼失!

No3 1月3日(火) 大火事
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/01/13_03.html

同様に京都も例外無く平安から江戸末期まで大火の歴史がありました。
今日は 京都の大火事を調べてみました。
平安時代以降の大火事と言えば 
1177年(安元3年)「太郎焼亡」「次郎焼亡」と連続して起ります。
鴨長明の『方丈記』によると
火事は「樋口富小路辺り」(現在の京都市下京区万寿寺町富小路辺り)の小屋から出火し、当時の市街地約三分の一が炎上しました。
この様子は、九条兼実の『玉葉(ぎょくよう)』、藤原定家の『明月記』など他にも多数の古記録や文学作品に書かれました。
1467年(応仁元年)応仁の乱による戦乱火災
1788年3月7日天明8年1月30日)天明の大火
 団栗焼け(どんぐりやけ)、都焼け(みやこやけ)
 または干支から申年の大火(さるどしの たいか)と呼ばれました。
 当時の京都市街の8割以上が灰燼に帰します。
1864年(元治元年)には
 京都史上最大級の戦乱大火災がありました。
 禁門の変(蛤御門の変)による大火事です。
いわゆる「どんどん焼け」(鉄砲焼け)と呼ばれました。
戦闘の場になった御所と長州藩邸辺りから出た火が京都一円を焼き尽くしました。
この様子を表すものとして「洛中大火夢物語」、「秋の日照」、「甲子兵燹(かっしへいせん)図」があります。
手元に「甲子兵燹図(かっしへいせんず)」がありますので

じっくり見てみるとその描写には興味深いものがあります。
甲子兵燹図(かっしへいせんず)は
1893年(明治26年)に発行されました。
復旧の図
この絵の舞台、蛤御門の変の現場となった御所と長州藩邸辺りから出火します。
7月19日朝7時頃に河原町二条の長州藩邸から
※落ち延びる長州勢が長州藩屋敷に火を放ち逃走。
10時頃には堺町御門に隣接した鷹司邸の2ヵ所から出火します。
※敗残兵が逃げ込んだ鷹司邸や民家に会津藩・薩摩藩兵・新選組が砲撃し出火
このことが会津以下幕府側の評判を落としたとも言われています。
21日朝まで燃え続けました。
焼失した町数は811町、被災世帯2万7513戸、公家屋敷18、武家屋敷51、社寺253に及んだといわれています。負傷者744名、死者340名が出ました。
赤色が類焼地域、被害が全域に及んでいることがわかります
当時の市街地の3分の2に当たる地域が焼失し、東本願寺など大きな寺社にも被害が及びました。
京都御苑(京都御所)自体は焼失を免れますが
この「禁門の変」の大火で京都は機能を失い、天皇の東京行幸のきっかけにもなります。
この大火災が発生する戦乱が起る直前の
1864年(元治元年)7月11日午後5時ごろ
横浜開港に深く関わった変わり者 信濃国松代藩士 佐久間象山が三条木屋町で暗殺されます。
紅葉の野毛山
佐久間象山の碑
佐久間象山、優秀な半面傲慢でもあり 敵も多かったようです。彼の弟子“勝海舟”もあまり象山のことを(回顧談で)良く評価していませんが、海舟もかなりの変人ですので どっちもどっちといったところでしょうか。
佐久間象山の碑が 野毛山公園に建っています。
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2013年6月25日火曜日

No.454 「横浜道」を歩く (後編) 加筆修正

No.453に引き続いて現在の「横浜道」(後編)の紹介です。
後半は横浜道の難所となった「掃部山・野毛山」越えから
野毛の町にぐぐっと曲がり
そして大岡川を都橋で渡ると吉田町、吉田橋となります。
現在 最も開港場の歴史を庶民の視点から散策できるエリアです。
掃部山(かもんやま)の桜
この道行きは
人気の観光、賑わいゾーンで
案内情報も沢山紹介されています。
見どころは「掃部山」界隈です。

横浜能楽堂
ここでは少し違った視点で紹介しましょう。
(石積み博物館)
このエリアは「石積み」の野外博物館です。

野毛山の傾斜地に
フランス積み
ブラフ積み
古来の亀甲石積
布積み
乱積み
谷積み
等々 時代や環境に応じた石積みが発見できます。

(蕎麦街道)
横浜道にはそば屋が多い!!!!
平沼から日本蕎麦屋が10軒以上あります。
浅間下「横浜そば処 古登婦喜」
平沼「角平」

平沼「田中屋」

戸部「砂場」
戸部「松山そば店」

戸部「田中屋」

戸部「あんどうそば店」

※ちょっとルート外ですが花咲町 「太宗庵」

野毛町「中屋」
野毛町「東京庵」
吉田町「角清」
※八軒訪問。横浜道「蕎麦街道」って発想あると思います。

野毛山周辺はグルメスポット集中地区、しかも
小さい名店が点在しています。
例えば洋食!
紅葉坂周辺には「洋食屋きらく」(昔金港亭がありました)
青少年センターの「メルヘン」はあなどれません。
センターグリル、キムラの老舗も
レストランも新旧入り乱れて 話題の店が
ぎゅーーーーっと詰まっています。

No.371 1月5日(土)ノゲ的
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/01/no515.html

No.424 琉球バル
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/03/no424.html

No.323 11月18日(日)歓楽街の住まい方
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/11/no3231118.html

No.61 3月1日 成田山横浜別院延命院復興
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/03/31.html

※野毛界隈は ここでは略します。

(吉田町)
さて 最後のルート「吉田町」に入ります。
No.321 11月16日(金)吉田くんちの勘兵衛さん
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鴎が舞う「都橋」を越えると
右側(南側)と左側(北側)が対照的な商店街が登場します。
吉田町の特徴は 左右非対称の商店街です。
通りとしての元気が出てきたのがここ十年のことです。
野毛とイセザキに挟まれて 静かに時が流れていましたが
再開発の計画が起る度に 街の活性化がロックされてきました。

この界隈も 情報が最近多く発信されています。
参考にされて 変わりつつある「吉田橋界隈」を
散策してみては如何でしょう。
新しいカテゴリーの飲食店が多く出店しています。
老舗中の老舗
肉の中川、鶏肉の梅や  は健在!
残念ながら閉店しました。
画廊も バーも
「Bar Noble」
横浜市中区吉田町2-7 VALS吉田町1F
http://noble-aqua.com

No.134 5月13日 必ず素晴らしい日の出が訪れる
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最近は
うなぎの「八十八」が出店しました。
このエリアから 目が離せません。

※余談テーマ
 野毛の街をあるいていて
 「理美容店」の多いことに気がつきます。
 特に理容店で、値段もバラバラというところが
 ちょっと“おそろしい”
 今度数えてみますが ざくっと知っているだけで
 野毛界隈に 理容室が10軒は数えることができます。
No.457 ザンギリ野毛
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/07/no457.html
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2013年6月24日月曜日

No.453 「横浜道」を歩く (前編)

昨日No.452で、横浜道が造られた頃の話しを紹介しました。
今日は、現在の「横浜道」をぶらり歩いてみましょう。
横浜道は、旧東海道の浅間下(当時は芝生村)から、
関内の吉田橋まで一直線につながっている
開港後最初にできた重要道です。

横浜道散策は東海道筋からスタートします。
(浅間下)
横浜道のスタート地点には、富士山信仰の「浅間神社」が鎮座しています。
周辺にはビルが乱立していますが、かつて海と冨士が良く見えた高台にあります。
このあたりの浅間下は、昔「芝生(しぼう)」村と呼ばれていましたが、
しぼう=死亡の音でもあるのでこの地名は無くなり「浅間下」と呼ばれるようになりました。

交差点の脇に「横浜道」起点の案内看板が設置されています。
ここから県道13号線(新横浜通)を関内方向に。
最初の川と橋があります。
新田間川(あらたまがわ)と新田間橋です。
この周辺には、うなぎの「野田岩」があります。
また、新田間川沿い少し上流に家具のダニエルの工房「家具の病院」があります。
事前に申し込めば見学もできます。私の大切な秋田木工の籐椅子の座面修復をお願いしたことがあります。
(見事な完成度です。今これに座って原稿を書いています)
新田間川を越えると横浜駅西口のビル街に入ります。交通渋滞の激しい岡野の交差点近くには予備校と東急ハンズ(7月で移転のため閉館)があり若い人たちがぐっと増えます。
ここには「吉村家」「横浜家」「山頭火」と人気ラーメン店が立ち並ぶところでもあります。
旧道「横浜道」は、次の帷子川(かたびらがわ)を渡る地点で少し脇道にそれます。
高架橋となっている「平沼橋」脇に小さな「旧平沼橋」があり、
少し前まで、開かずの踏切が設置されていました。
現在は通行不能となっています。
“平沼の踏切”を過ぎると、平沼商店街が戸部の手前石崎川に架かる
「敷島橋」まで続いていましたが 残念ながら
現在は見る影もありません。
それでも 良い店は頑張って残っています。
歴史ある蕎麦の田中屋、角平。お茶の平沼園、和菓子屋の寿々喜
新しいレストランも誕生しています。
三つ目の石崎川と敷島橋を越えると「戸部」に入ってきます。
お肉の「井上富蔵商店」は元々卸で小売りも行っています。

戸部7丁目交差点、市営地下鉄「高島町駅」あたりから京急「戸部駅」までは、かつて栄えた三菱造船関連の工場や機材、下請け企業が密集していたエリアです。
現在も少しその面影が残っています。
お店もかつて造船所関連お土産として人気だった「東京ひよ子 横浜店」が現在もしっかり営業しています。

銘菓ひよ子は、九州福岡のお菓子ですが、東京オリンピック以降関東に進出し 見事東京ブランドとなった珍しいお菓子です。
炭坑や製鉄所など重労働に「甘味」が人気となって福岡の名産となります。
※余談 岩亀横町に和菓子屋「住よし本店」がありました。ここには名物“塩分の効いた”きんつばがあって、造船所に働く人たちの超人気菓子だったそうです。
どこかで復活して欲しいな!甘みを抑えた良い味でした。

戸部7丁目交差点にある 今話題のお店と言えば
「横濱うたげやど根性ホルモン」です。
http://dokohoru.info
地恵地楽のお店と言われるだけあって 地産地消の人気スポットです。

このあたりから
江戸時代に切り通しとなった野毛山のてっぺんまで
少しずつ上り坂になっていきます。
戸部四丁目交差点からみなとみらい方向にのびる
「岩亀横丁」幕末から明治にかけて横浜最大級の遊郭
「岩亀楼」の遊女達の寮があったことからこう呼ばれるようになったそうです。

遊郭が無くなった後は 三菱造船関連の工場街として栄えます。
現在は その名残が少し在る という程度です。
この「岩亀横丁」には「岩亀稲荷」があり
「幕末安政のころ、現在の中区横浜公園のあたりにあった「岩亀楼」という遊廓(ゆうかく)の遊女が、静養のため利用した寮がここにあったことから岩亀横丁と呼ばれるようになったという。この横丁のなかほどに、静養に訪れた遊女がお参りしたといわれる稲荷がある。岩亀稲荷と呼ばれ、例祭が行われるなど、今も大切に守られている。」(横浜市西区HP)


ここには こんな言い伝えが残っています。
幕末の尊皇攘夷の考えから外国人客を拒み、
17歳伝説の岩亀楼のナンバーワン遊女「喜遊」が
最後は喉に刀剣を突きたてて自害したという。
この言い伝えには若干????
そもそも居留地の遊郭に上る時点で、
外国人相手が想定されることは解りきっていたことですから
恐らく 攘夷ではなく 理不尽な要求を拒み自害が妥当な線ではないか?
と推論しています。
後半はまた明日にしておきます。
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