2013年2月28日木曜日

No.419 落胆の身を江湖にさらす

No.418を419と間違えました。
修正するとちょっとややっこしいのでこのままにして、明日418としてアップします。すみません。

今日は銀行家であり実業家、教育者、茶人でもあった
“中村道太”という人物を紹介しましょう。
旧正金銀行本店、現県立歴史博物館 Wikiより
小さいころから秀才で漢学,国学,英学などを学んだ中村道太は
丸善の初代社長を務め
豊橋第八国立銀行を創業
横浜正金銀行初代頭取となり
その手腕を発揮しますが
時代に翻弄され 85歳で亡くなるまで
落胆の人生を歩みました。
No.59 2月28日 アジア有数の外為銀行開業
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/02/228.html

(波乱の人生第一幕明治維新)
1836年(天保7年)中村道太が生まれた吉田藩士(現在の豊橋)は徳川家臣として立藩した徳川幕藩政権に近い藩でした。
譜代大名が歴代藩主を務め、吉田藩に入部することは、幕閣になるための登竜門のひとつといわれてきましたが、幕末は財政危機を迎えます。
優秀だった道太は、江戸詰を命じられ江戸にいた時に
勝海舟、福沢諭吉の存在を知り
特に福沢の「西洋事情」を読み感動し築地鉄砲洲の藩屋敷で私塾を営んでいた福沢を訪ね運命的出会いとなります。

幕末期の三河吉田藩は苦しい財政を抱えたまま大政奉還、明治維新を迎えます。
幕藩側だったため、新政権からは厳しい対応を迫られます。
武士だった中村は明治に入り、立場にこだわることなく近世から近代へいち早く考え方を切り替えます。
藩の財政を福沢から学んだ簿記の考え方で立て直し、
1870年(明治3年)には34歳の若さで好問社学習所(女子教育学校)を豊橋に設立します。
その後、道太は旧藩主の江戸藩邸の家財整理の役目で江戸に出ます。
役目を終えた後、
自宅を洋物の商店にし商人として新しい人生を歩みだします。

その後、福沢諭吉の推薦で横浜に行き早矢仕有的の丸屋に入社し
1872年(明治5年)共同経営者となります。
ここからが中村と「横浜」の点と線のような運命が始まります。
横浜に創業した丸屋商社は後に東京へ移り丸善となり、中村は地元豊橋で第八国立銀行設立しますが、
その間 早矢仕有的、小泉信吉、福澤諭吉、大隈重信らと協議を重ね、
外貨銀行の設立準備を進めます。一度出した願いは却下されますが、
1879年(明治12年)12月11日に「正金銀行創立願」が認可され、
横浜正金銀行が設立されます。
1904年(明治37年)に建設された横浜正金銀行本館は妻木頼黄の設計。関東大震災でも建物の倒壊等はありませんでした。
(波乱の第二幕)
横浜正金銀行初代頭取に就任し、ここから中村道太の波乱の人生第二幕が始まります。
中村を頭取とし、資本金300万円で始まった横浜正金銀行は、その後国際金融面で明治政府を支え続けることになりますが
創設早々、横浜正金銀行、銀貨相場の下落・荷為替や貸出などで不良債権を生じ経営危機に陥ります。
1882年(明治15)年7月に中村道太は責任を取って辞任します。
が、
その前年1881年(明治14年)に、明治時代を揺るがした「明治十四年の政変」が起ります。
明治の岐路に立つ大事件、
1877年(明治10年)には内乱「西南の役」
1878年(明治11年)には大久保利通暗殺という動乱を経て、
1881年(明治14年)初めに明治14年の政変が起ります。
君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われ、後者の中心人物だった「大隈重信」以下ブレーンの福沢諭吉及び慶應義塾門下生を徹底して政府から追放した政治事件。
この政変で大日本帝国憲法が君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まります。
この「明治14年の政変」はもう少し複雑な背景がありますが、別途紹介します。
中村道太は政変のあおりを食ったのかもしれません。
横浜正金銀行からも慶応義塾色が排除され、道太も悪者扱いされますが、その後社史でも復権します。
そして、中村道太は正金銀行を辞めるとき、額面で2,000株を買取ることになります。当時、経営が思わしくなかった正金銀行株は下落していました。額面100円が90円だったそうです。
ところが、正金銀行株は280円に跳ね上がり友人に売却し大きな資金を得ます。
(落胆の第三幕)
中村は、その後少し政治の世界に入っていきます。
慶応義塾を辞めた井上角五郎を朝鮮に送り“革命の志”金玉均支援活動に関わります。
一方で東京米商会所の会頭に就任し業界を指導しますが、
これもまた 反大隈派の急先鋒だった睦奥宗光と井上毅らによって叩き潰されます。(このあたりもドラマチックです)
東京米商会所は閉鎖され中村道太はまた、道を閉ざされます。
大隈と福沢は別の道を探れ!といったのかも知れませんが
中村は東京米商会所再建に奔走し私財を全て投げ出します。
このあたりから 中村道太の人生がずれはじめます。
活動の記録が消えうわさ話ばかりが残っています。
旅館経営、寿司の販売、清元の流し など
実際は 隠遁生活を送っていたようですが、
その後85歳で亡くなるまで実業の世界に彼の姿を見る事はできませんでした。
(意外な横浜つながり)
1883年(明治16 年)「昼花火」の技術を日本人で初めて米国特許として取得し1904年(明治37年) のセントルイス万国博では、最高金牌を受賞した平山甚太の花火製造所を

No.308 11月3日(土)対米初の特許は横浜花火
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/11/no308113.html

で紹介しました。

この平山甚太は横浜商法学校(現在のY 校)創立発起人の一人でもありますが、
兄が中村道太です。

No.267 9月23日(日)Yの真価
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/09/no267923y.html

作家の獅子文六は甚太の孫で2010年APECでオバマ大統領が来日した際、菅総理に日本人として初めて甚太が取得した米国特許の複製が贈られたニュースを見た方も多いと思います。
兄弟だった中村と平山、一時期中村道太も弟の協力で“豊橋花火”の事業化に取組み海外輸出もおこなっていたそうです。
もうひとつ、

No.255 9月11日(火) 謎多き尾上町の女将
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/09/no255911.html
中村を支えた女性がいます。
富貴楼のお倉です。
ココからは推論の推論ですが、
伊藤博文が比較的、大隈や福沢の考えに寛容であったことや
朝鮮半島をめぐる時代認識も福沢等に近かったのは?
彼女の関わりが少し あったかもしれません。
この辺で、富貴楼を巡る明治初期のドラマが生まれるかもしれませんね。
このあたりももう少し掘り下げたいところです。
今日は これまで。

2013年2月27日水曜日

No.417 Tram Tin Tim Street Car1

商人が作った
浜のちんちん電車
横浜市電物語 創世時代編2
横浜にちんちん電車が走ったのは、他市に比べて遅いスタートでした。

No.114 4月23日 貝から生まれた市電の物語
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/04/no114423.html

若干重なる部分もありますが、今日は少し違った目線から市電を紹介します。

理由は幾つかありますが、幕末開港以来いち早く「馬車」や「人力車」による交通網が整備されたことが逆に路面電車(電気鉄道)導入が遅れた大きな要因です。
ちなみに 一番早く路面電車を導入した都市は「京都市」
1895年(明治28年)2月のことです。
京都がいち早く電気鉄道を導入できた要因の一つに
京都 蹴上水力発電所の創業があります。当時の発電技術では、水力発電が圧倒的に高電圧発電にすぐれていました。
遠距離の送電には高電圧が必要で、火力に比べ自然エネルギーに富む日本、とりわけ京都が立地上優位にありました。
また、1900年代までに、各地で電気事業がスタートしますが京都の電気技術はトップクラスだったそうです。その背景には
びわ湖疎水事業がありました。横浜とは直接関係がありませんが、横道に逸れると
明治維新まである意味日本の中心地だった「京都」は、東京遷都という試練を受けます。街が一気に衰退しはじめ、京都では東京以上に近代化を進める運動が起ります。
そこで、京都が取り組んだ計画が“インフラ整備”だったことが、今日の京都を支えています。

(実は日米ほぼ同時期)
日本の電力事業は、水力も火力もほとんど
イギリス・アメリカと同時期だったことは知られていません。
東京電灯会社の創設と米国のエジソン電灯会社の創設は殆ど変わりませんでした。
日本は、電気エネルギーに関しては、欧米とほぼ同時に実用化への道を歩んできた事になります。
※余談 アメリカで発電事業が発展する段階で交流・直流の配発競争、論争が行われます。その影響が、日本にも及び
大阪の交流、東京の直流方式採用という事業方針の違いが今日の60ヘルツ、50ヘルツ問題の原点があります。過去に何度かヘルツの統一のチャンスがありましたが、結果的に一世紀以上の間一国2制度のまま来てしまった訳です。

(その他の都市での市電開通は)
名古屋電気鉄道 1898年
大師電気鉄道 1899年
小田原電気鉄道 1900年
東京電気鉄道 1903年
大阪市営 1903年
東京市街鉄道 1903年

横浜で最初の路面電車は「横浜電気鉄道(株)」が1904年(明治37年)7月15日に神奈川(現 青木橋)〜大江橋(現 桜木町)間 1哩60鎖の距離で運行しました。
創業期から明治に開設された路線図
この「横浜電気鉄道(株)」の設立に関わった人たちの多くが
いわゆる横浜の起業家たちでした。
平沼専蔵(埼玉出身の実業家)
田中平八(天下の糸平と呼ばれた相場師)
高島嘉右衛門(横浜最後の政商)
原富太郎(生糸商)
木村重太郎・渡辺和三郎・矢野甚吉 他多くの横浜を代表する商人達がこの
「横浜電気鉄道」創設発起人達でした。
横浜電気鉄道、創業期から厳しい事業となり大正の大戦恐慌で経営不振に陥り、横浜市が電気鉄道事業を買取り現在に至ります。

鉄道事業そして電気事業をを含め、
明治期様々な事業に、維新の起業家たちが関わりますが、
横浜電気鉄道を例にとれば 船頭多く事業計画がまとまらない
個人商店の域をでない
ことで、急激な経済環境の変化に対応できませんでした。
横浜経済史上、大正不況(大戦不況)が大きな曲がり角になっていきました。
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現在は下記のサイトに移行中です。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/

2013年2月26日火曜日

No.416 一枚の案内パンフ

今日は大枚800円もはたいて購入した
一枚のパンフレットから見える風景を紹介します。

【注目1】湘南アルプス
最近は
高麗山(168m)〜八俵山(160m)〜浅間山(181m)〜湘南平(160m)の丘陵を「湘南アルプス」と表現するらしい。
ところが、
昭和12年頃、金沢文庫から「湘南アルプス」の上り口があったようです。
現在は「横浜の屋根」 という呼び名をするそうです。
“釜利谷”の金沢自然公園、釜利谷市民の森〜氷取沢あたりと推定できます。
峯の灸寺は円海山護念寺・峯の灸のことです。

【注目2】湘南電鉄
湘南電気鉄道(略して湘南電鉄)わが国最初の1,435mm軌間の採用
運行期間は黄金町 - 浦賀間と金沢八景 - 湘南逗子間が1930年(昭和5年)4月開通し翌年の1931年(昭和6年)黄金町 - 日ノ出町間が開業しました。
1933年(昭和8年)4月から京浜電気鉄道と相互乗入れを実現しました。
1941年(昭和16年)11月に合併解散し京浜電気鉄道に一本化され現在の京浜急行電鉄の前身となります。
だから!
正確にはこの地図が作られた昭和12年は相互乗入れ期ってことですね。
京浜電気鉄道の名が無い!!!???
この頃は、京浜より湘南の方が強かったのかな?

【注目3】裏面にも
緑と水の魅惑!
湘南電気沿線の新緑!!
軽快な「最新式展望電車」とあります。

手元に資料が無いので 後日探してみます。
当時、モテハ220形とい う木造展望車が東北宮城を走り
ガイドガールが乗務し、熱い紅茶のサービスがあったそうです。
モテハ220形?これもどんな車両だったのか
知りたい!


1941年(昭和16年)11月1日に)3社合併、社名をを京浜電気鉄道(株)に。
11月25日には、五島慶太が取締役社長に就任します。
一時、京浜急行は東急傘下に入りますが
戦後すぐに 財閥解体時に独立します。

一枚の小さな チラシ 衝動買いしたので
無理矢理 紹介しました。お粗末様。

2013年2月25日月曜日

No.415 横濱的音楽世界

ハマにはいつも、新しいサウンドが溢れている
震災そして空襲、焼け跡から逞しく立ち上がってきた港町・横濱。
幕末、開港のうねりに誕生した多くの芝居小屋にも
最新の歌声が響いた。
講談・義太夫に始まり、ジャズ、クラシック、ブルース、ダンス、演歌、ポップス…、
さまざまな横濱的音楽世界を探ってみたい
(今日は事情で一枚しか写真がありません。適時追加します。) 横浜は街を失うたびに、
新しく生まれ変わってきた
横浜は、何も無いムラから育ち
何度か街の焼失を経験し脱皮してきた。

いつも、ここから、立ち上がってきたのが横浜の歴史だ。
幕末、大火事で焼け野原になった。
これを機に日本大通りが生まれ、日本人住宅が木造からレンガへと変わるきっかけになる。
居留地の「ゲーテ座」では音楽劇が明治の開館とともに上演、居留地外国人を唸らせ、
山手の「横浜パブリックホール」にはオペレッタ、オペラが連日かかり
オッペケペーの川上音二郎は、明治の横浜でデビューし全国を「ニュース芝居」で熱狂させた。
横浜で亡くなった竹本東猿は、女義太夫界で若者を夢中にさせた。


No.225 8月12日 (日)太夫 打越に死す
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/08/no225812.html


女流義太夫「新版歌祭文」野崎村の段キリ
http://www.youtube.com/watch?v=d0tPop7P8p4

文明開化は、横浜から始り
多くの起業家が横浜に集まった。
大正は横浜の時代だったといっても過言ではない。
しかし、
1923年(大正12)9月1日に起こった関東大震災で、横浜は壊滅的な打撃を受けた。
被災世帯の割合は、東京の73.4%に比べ
横浜では95.5%にも及んだ。
この震災で、横浜は基盤を失う。
開港以来ライバル関係にあった神戸に
生糸貿易の主役の座を奪われ、多くの企業が横浜を離れる。
でも谷崎は逃げたが、大仏 次郎はここからスタートした。

敗戦の傷跡、
アメリカ文化と出会う
第二次世界大戦中、横浜は三度目の試練を受ける。
1945年(昭和20年)5月の横浜大空襲である。
B29爆撃機517機
P51戦闘機101機の大編隊から
1時間8分の間に焼夷弾31,916個(2,570トン)が投下され、
被災者は31万を超え、
約8,000人が亡くなった。
終戦がおとずれる3ヶ月前のことだった。
横浜は、米軍接収の時代に入る。
沖縄を除くと、本土の接収地面積の70%が横浜だった。
占領軍の建物も61%が横浜にあった。
さらに その60%が長期の接収となった。
横浜市中区の74%が摂取され、関内地区と横浜港は治外法権エリアとなった。
横浜は経済復興が大幅に遅れたが、占領下のアメリカ文化にどっぷりと浸る。

進駐軍の米兵達は市内に憩いの場を求め、街はそれを受け入れた。
多くの兵士が市内に生活拠点を置くことで、横浜はアメリカ文化と出会う。
その象徴がサウンドだった。ジャズ、クラシック、ブルース、マーチ
米兵が伝えた音楽は、多彩だった。

ジャズは、野毛で守られていた炎が劇場から広がり、
伊勢佐木には映画館が建ち並び
ブルースは本牧で屑ぶり、街中の猥雑な空間から広がっていった。
※昭和25年ごろ、約40軒の「本牧チャブ屋」が復活する。
そこにはブルースがたちこめていた。

占領軍は兵士の社交施設、文化施設をいち早く設けた。
米軍の体育施設フライヤージムでは国際音楽コンクールからプロレス、ジャズ他文化発信基地になった。

No.190 7月8日(月)パブリック・ディプロマシー
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/07/no19078.html

No.272 9月28日(金)横浜の中の世界のノナカ
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/09/no272928.html

2013年2月24日日曜日

No.414 競争共栄商店街


今日は「洪福寺松原商店街」を紹介します。
商店街は【番外編】で紹介する事が多かったのですが
横浜市内の名物商店街の中で外的環境の変化に対し
闘ってきた点で特筆しておきたい商店街ということで本編で紹介しておきます。
一昔前の商店街の核「魚幸」現在は新店舗でさらに混んでます。
洪福寺松原商店街に一歩足を踏み入れると、
ある種の“めまい”と“エネルギー”を感じます。
平日の昼間だというのに、どこから客が集まるのか?
とにかくいつでも混んでいます。
戦後生まれの新しい商店街で、コンセプトは「超安売り」
(歴史)
洪福寺松原商店街は横浜の下町を代表するエリアの一つです。
1949年(昭和24年)接収解除
洪福寺松原商店街が誕生したエリアは米軍車輛置場として接収されていましたが解除となります。住宅はほとんどありませんでした。
1950年(昭和25年)萩原醤油店が開店
現在の洪福寺松原商店街の核ともいうべき萩原醤油店が(現在の商店街中心部に)開店します。
1952年(昭和27年)その後八百屋、乾物店、魚屋などがあいついで開店し商店街を形成します。当時18店舗が集まります。
現在「洪福寺松原商店街」のリーディングショップとなっている
「魚幸商店」はこの頃から、三崎魚港や北海道各地から直接鮮魚を仕入れて安く売る話題の店として成長します。
1954年(昭和29年)車両通行禁止の交通規制を行い歩行者天国を実施します。
その後、シールサービスの導入、街路灯、有線放送の設置。
会報の発行、商店街事務所開設、松原音頭制作、店頭装飾コンクールの実施。
オイルショックの時にも、団結し「危機突破総決起大会」を開くなど、商店街の結束力を高めます。積極的に横浜市の支援・指導も取り入れ
「横浜市街づくり市街地型モデル商店街」の指定も受けます。
来店者無料大型駐車場のあるショッピングセンターの登場に対しても下町商店街の性格を持ちながらもいち早く“来街者用駐車場”を整備します。
近くに「ニチイ」出店計画が発表されてからも、単なる反対運動だけではなく
受けて立つことを決めます。
現在、イオンGに統合された大型SCをも凌ぐ集客力を持ち、
下町風情は維持しつつ、積極的に新しい時代への対策を売っていく姿勢が、今日の賑わいを創り上げています。
「同業種店の新規参入歓迎」
この商店街の特徴は、競合店の塊。
八百屋・魚屋・総菜店他、ライバルの無い業種は逆に客が入らない程
商店街内に同業種店が共存ではなく競争共栄状態にあるのも特徴です。
昭和初期の天王町、松原周辺
昭和20年代には、市電の基地「浅間町車庫」(現在のバス基地)まで遠くは鶴見区から市電を乗り継ぎ買物客が訪れたそうです。
このエネルギーは現在も変わっていません。
単純に 町を新しく整備するのではなく 必要なモノ・コトは積極的に
変えないものは「軽々に変えない」ことが今日の賑わいを生んでいます。
しかし、この商店街にも時代の変化が押寄せています。
高齢化による商圏の縮小
新顧客層の取り込み 他
課題が山積する中、
新しい若いエネルギーを導入し
横浜国立大学のプロジェクトと連携事業も行うなど
チャレンジも忘れていません。

「洪福寺松原商店街」のヘソ
賑わいの十字路に立つと 何時も
ある種の“めまい”と“エネルギー”を感じます。
商店からは大きな声が響き、安売りに集まる人たちの熱気が伝わります。

この商店街も「観光気分」で訪れるにはもってこいの
横浜を代表する下町商店街です。
市内随一のダンスシューズを置いている靴店、個性で勝負。
一度 お試しあれ!
※買物秘伝
 安いが量が多い!
 そんな時には 積極的に
 周囲の人に「分けません?」と声がけ
 シェアショッピングもこの商店街の特徴のようです。

2013年2月23日土曜日

No.413 あるドイツ人の見た横浜

昨日、紹介した森山 栄之助に関する人物観察が多くの来日外国交渉団に記録されています。
その代表がペリー率いる日本遠征団とプロイセン王国の使節団による日普修好通商条約交渉団です。
今日はプロイセン王国のオイレンブルク伯爵使節団を通して記録された日本(横浜)の印象を紹介しておきましょう。
オイレンブルク伯爵使節団一行

(プロイセン艦隊来航)
1860年9月(万延元年)に日本へ到着したプロイセン東洋遠征艦隊は通商条約の締結を要求します。
1858年(安政5年)に結んだアメリカ他の欧米列強との通商条約(一般的に安政五カ国条約)と同じ条約締結を求めてきました。
日本側の代表は磐城平藩(現在のいわき市の中心を治めていた藩)藩主であった老中の安藤信正があたり、プロイセン側は後にプロイセンの内相となる外交官フリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク伯爵が全権代表として交渉にあたります。
プロイセン王国
日本側はこの時期、日米修好通商条約の調印を巡って分裂した朝廷・幕府関係の修復を図るために公武合体策のまっただ中でした。攘夷の意思が強かった朝廷の意向を損ねる恐れがある行動にでることができず日普交渉は膠着します。
この交渉は1858年に新設された外国奉行(神奈川奉行兼務)の“堀 利煕”に任されますが、ここでパーセプションギャップの悲劇が起ります。
交渉の過程で条約内容にプロイセン以外のドイツ諸国との条約が含まれている事が責任者の安藤信正と認識違いが起り“堀 利煕”を問い質します。
※この時プロイセン代表オイレンブルクは統一前のドイツ関税同盟(ハンザ同盟)の代表も兼ねていたためできれば全ての国とも条約締結を目指していました。それが他国との同時締結と捉えられ老中の怒りとなりました。
利煕はそれに対して弁解せず、プロイセンとの条約締結直前に切腹という責任の取り方をします。これにはプロイセン側も驚きを隠せませんでしたが、粘る交渉の過程で、プロイセン単独の条約締結にこぎつけます。
この時のプロイセン側の通訳にはアメリカ公使ハリスの通訳でもある元オランダ人ヒュースケンがあたり、日本側は森山多吉朗(栄之助)が担当していました。
ヒュースケンは、オランダ語、オランダ語と近いドイツ語、英語、フランス語ができたため、日本にいた諸外国の殆どの言語に対応できるスーパー通訳でした。
また、日本側の優秀な通詞、森山多吉朗とも信頼関係が築かれてきた矢先のできごとでした。
オイレンブルク日本遠征記の中で通詞達とのやりとりを「われわれの年齢については、彼らはずっと若く考えていた(日本人は比較的年をとって見えるのである)。酒井は四十三、堀織部は四十一、森山は三十八歳だった。森山は、いろいろ多くの事件、仕事が彼をこんなに年寄りにしたのだと主張した。」
とあります。実際に森山は、激務のため見る見るうちに老け込んだと他の資料にも書かれていますので、特にふけ顔だったのでしょう。

日本側は、直ぐに同じく外国奉行の村垣範忠を後任にします。
来日から半年の交渉の末、ようやく
1861年1月24日(万延元年12月14日)に日本とプロイセン王国との間に、日普修好通商条約が成立しますが、
その10日前の1月15日の夜、大事件が起ります。
攘夷志士によるヒュースケン殺害事件です。
プロイセン使節団の宿舎・赤羽接遇所を出てアメリカ公使館のある善福寺へ帰る途中に、待ち伏せしていた5〜7名の侍に切りつけられ瀕死の状態で善福寺に運ばれます。手当てもむなしく翌16日にヒュースケンは亡くなります。
アメリカ公使ハリスの片腕ともいえるヒュースケンの死はハリスにとって悲しみと怒りの対象となりましたが、これを外交問題とせずプロイセン側も事を荒立てず日本政府はことなきを得ます。
※当時、外国人に対する殺傷事件が多発していて、ヒュースケンにも再三注意を喚起されていた矢先の事件でした。

(ビスマルクの片腕)
プロイセン王国代表、オイレンブルク伯爵は帰国後ドイツを統一したビスマルクの片腕としてプロイセン内相になった優秀な外交官でした。
彼が来日中(1860年のクリスマス)に公館にクリスマスツリーを飾った記録が残っています。これが日本最初のクリスマスツリー設置記録と言われています。
彼らは約半年の交渉の合間に、江戸近辺を散策し長崎にも旅行しています。
当時は、攘夷運動が盛り上がっている日本でしたので、外国人団の外出は大変両国とも気を使った行動だったようです。
交渉団一行の一部は横浜に滞在していました。
この横浜に関して、幾つかの興味深い記述がされています。

横浜ホテル(YOKUHAMA HOTEL)

No.55 2月24日 YOKUHAMA HOTEL-KANAGAWA
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/02/224yokuhama-hotel-kanagawa.html


横浜の発展のようす
横浜の商店、中でも動物商
友好的な土地の人々の描写
マンダリン岬(本牧岬)付近
横浜での商取引 等々的確な観察記が残されています。
中でも、中村川の掘割(元町の横を流れる)については詳細に
外国人居留地を運河で囲み『第二の出島』にする計画だと地理的に分析しています。
※『オイレンブルク日本遠征記』は、発展の様子が数年の変化を下に訪日後数年経って記述されてるので興味深いものがあります。


その後、プロイセンはヴィルヘルム1世と宰相ビスマルクの下でドイツ統一の道を進みます。日本でのドイツは、幕末から明治にかけて英米仏とは一線を画し中立的立場をとります。この当時新興国で幕藩体制に似ていたドイツに日本の指導陣が心惹かれていくことで、多くのお雇い外国人を招聘し、留学生を送り医学、法律、軍隊制度他 ドイツの影響を強く受けるようになっていきます。
No.162 6月10日(日)日本よさようならである。
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/06/no162610.html

ちょっと横浜に関する内容が希薄なので
別に外国人の見た「横浜」特集を組みますのでご勘弁下さい。

2013年2月22日金曜日

【番外編】磯子区濱

横浜市内にある名物商店街の一つ「浜マーケット」
何が名物か?
このあたりを謎解きしながら紹介しましょう。
「浜マーケット」
名物その一
第一印象は、その佇まい。
昭和レトロな感じです。
横浜市内にある「六角橋商店街」と並ぶ戦後生まれた商店街です。規模は「六角橋商店街」が大きいですが、濃密さは五分五分です。

名物その二
近くに鉄道駅が無い!にも関わらず賑わっている。
その訳は、お店が頑張っている!
これが「浜マーケット」の最大の特徴だと思います。

浜マーケット
http://hama-market.com


名物その三
日曜日でも休む時は“休み”
そうなんです。週休ではなく9の付く日が定休日。
日曜でも9日ならお休みです。
名物その四
話題の店がある。
三角コロッケ、ガチコロの「カネヒラ」

総菜の「はまや高木食品」
ちょっと昔の高木食品
小分けの宝庫、色々楽しめます。
うなぎの「小島屋」
 放火で焼失しましたが、復活したうなぎ屋さんです。
 昔のお宝画像を一部紹介します。
おばあちゃんの釜焚き飯
この桶から美味いお新香が生まれました
(商店街周辺にも)
レストラン洗濯船のタンシチュー

季節感を感じる和菓子が人気の「磯子風月堂」
洋光台のムギヤさんも出店しています。

ここで
ちょっと浜マーケット周辺の歴史を
■以前はここが中心商店街!
「浜」の戦前戦後マップ写真比較
明治の頃
昭和初期

戦後
磯子 偕楽園あたり?

浜マーケット 未体験の方 おすすめですよ。観光気分でも構いません!
でも財布も緩めておいたほうが 尚 楽しいですよ。
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No.412 多吉郎、横浜に死す。

今日は一人の幕末に生きたある外交官を紹介します。
森山 多吉郎。
恐らく、殆どの方にとって初めて聞く名だと思います。
彼は横浜を舞台にした世紀の日米外交の通詞(通訳)として活躍した人物ですので、どこかで紹介しようと資料を探っていました。
ところが、本で彼が横浜で急死したことを発見し、彼の晩年にも関心がでてきましたのでまずは森山のアウトラインを紹介し日米交渉の顛末は後日に紹介することにしました。

森山 多吉郎は、一編の長編小説にあるアメリカ人と共に描かれています。
「海の祭礼」
吉村昭の秀作の一つです。
歴史作家“吉村昭”は、司馬遼太郎と並ぶ、近代を描いてきた偉大な人物です。
彼の「海の祭礼」に登場する
森山 多吉郎は、1820年7月10日(文政3年6月1日)に代々オランダ通詞を務める長崎の森山源左衛門の家に長男として生まれます。
ある時期まで、彼は森山栄之助と名のります。
彼もまた、有能なオランダ語通詞として家業を継ぎますが、時代はオランダ語以外の語学も必要に迫られてきた幕末に突入します。

(あるアメリカ人ラナルド)
「海の祭礼」はロシアと国境と開国で揺さぶられる
北海道宗谷地方から幕が開きます。
ペリー来航の五年前スコットランド人とネイティブアメリカンの間に生まれたラナルド・マクドナルド(Ronald MacDonald, 1824年2月3日〜1894年8月5日)が
日本に来たい一心で漂流民を装い、北海道に上陸します。

彼は 日本の法律によって、長崎に移送され監視下に置かれますが、この時に英語の必要性を感じていた長崎通詞の森山栄之助に“英語”をレッスンします。
日本国内で初めてアメリカ英語を学んだ日本人です。
二人の友情は深く結ばれ、アメリカ本国に帰国したラナルドは、最後まで日本を懐かしんでいたそうです。

この英語力習得が彼の人生を大きく変えます。
蘭・英2カ国語を使いこなせる通詞として、長崎から江戸に舞台を移し来航したペリー一行の通訳を担当します。
当時のロシア、ドイツ、イギリス、アメリカ他の外交日誌には森山の名が優秀な外交官として登場しますが、日本での通詞の位置はかなり低く見られていたようです。
・領事ハリスやオールコックとの巧みな交渉力。
・ロシア使節プチャーチンとの熾烈な交渉
・プロイセンとの条約交渉
 には彼が重要な役割を果たしています。

No.63 3月3日 日本初の外交交渉横浜で実る
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/03/33.html


欧州にも1862年(文久2年)1月に開港延期、国境問題等で渡欧した文久遣欧使節団(竹内保徳遣欧使節団)の通訳としてオールコックと同船しイギリスに赴きます。(〜1863年1月)ここに福沢諭吉も通詞として乗込んでいました。

巧みな外交の国イギリスのオールコックが「信頼しうる英人と情報交換できる」人物と評された彼の英語力と交渉力は優れていました。

幕末、江戸(日本)には英語を学ぶ手だてが大きく三つありました。
1 森山に代表される長崎通詞による英学
2 ジョン万次郎に代表される漂流民による英学
3 幕府が設立した蕃所調所での英学
このチャンスを活かした人物として福沢諭吉や福地源一郎がいます。

森山栄之助は、英語普及にも努めます。当時の英学辞書だった「英蘭対訳辞書」本から日本語と英語の辞書を編纂します。(多忙のため中断)
また公務のかたわら、江戸小石川に英学塾を開きます。
ここから沼間守一、津田仙、福地源一郎が学びます。

No.287 10月13日(土)翔ぶが如く
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/10/no2871013.html

(謎の多い森山)
幕末から明治にかけて、新政府の下でも仕事があったため多くの幕府通詞は新政府に残ります。敢えて、徳川家にということで静岡藩に移る通詞もいましたが、
森山は 役職を捨て新政府には加わりません。
「海の祭礼」でも触れていませんでした。
その他の森山関係資料でも「東京で急死」とありました。
ところが、近年の森山関係資料では、親友だった福地源一郎の資料から
森山は横浜で外国人相手の通訳をしていたとあります。
1871年5月4日(明治4年3月15日)横浜で急死し、妻と4人の子供が残されます。
彼の悲報を知った福地源一郎は、森山の長男と三女を引取り育てます。
三女梅子は福地源一郎の養女となり、同時代を生き静岡藩に移った通詞“西吉十郎”の息子と結構しているのも不思議な縁といえるでしょう。
※交渉相手だった諸外国から見た日本、そして森山に関しては
 別の機会に紹介します。
【追伸】

森山栄之助について

前置きが長く 息が切れてしまい
核心部分が抜けてしまいました。

森山は、幕府の通詞時代とても老け込んでいて
40代でも老人に見える程でしたが、幕府の立場を
通詞として有能な官僚として素晴らしい外交センスを駆使した人物でした。。

維新前夜、滅び行く江戸幕府を前に
彼に残された選択肢の中で、最も静かな道を選びます。
それが横浜での暮らしでした。
自由で、過去のしがらみもない街で森山は一時の平穏を味わったのではないでしょうか。
彼の上司であり親友だった福地源一郎
彼と関係の深かった沼間守一は
自由民権運動の道に進みます。
同じ通詞として重責を担った堀達之助は明治になり北海道へ
西吉十郎は、静岡藩から薩摩藩にそして法律家となります。
時代と政治に翻弄された通詞達。今一度歴史の舞台で光を当てるべき人たちでしょう。

2013年2月21日木曜日

No.411 横浜最古の寺周遊(後編)

No.410で横浜市南区にある横浜最古の寺院「弘明寺」を紹介しました。
今日は
この弘明寺門前に拡がる賑わいのエリアを紹介しましょう。

【第一スポット】
「弘明寺公園」
●見晴らし最高
京浜急行「弘明寺駅」脇にある岡一帯が弘明寺公園です。
高さは約50m、その一番高いところにさらに展望台が設置されています。

展望台からの眺めは富士山の眺め、みなとみらい方面の眺めが最高です。
一周ジョギングコースにもなっています。

●撮影スポット
富士山と丹沢山系

京浜急行の撮影スポット
ランドマークやマリンタワー

●図書館
駅から1分の市内で一番駅に近い図書館です。
屋上がプールになっています。
ちなみに二番目は 実感値で
保土ケ谷図書館ではないでしょうか?(実測してません)

【第二スポット】
「弘明寺境内」
●歴史探索
「四代目橘家圓蔵」他
No.109 4月18日 品川の名人濱に死す
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/04/418.html

1881年(明治14年)6月24日(金)に開業した
関内を代表する割烹料亭「千登世」寄進の看板
No.176 6月24日(日) 関内の粋といやーー、ね。
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/06/no176624.html

【第三スポット】
「商店街巡り」
http://www.gumyouji-shoutengai.com
●横浜ハット
昭和24年に創業し、現在は2代目の店主が営む老舗の帽子の専門店です。
茶人帽(和装用の帽子)、船長帽、カウボーイハットなど、帽子の専門店ならではの品ぞろえの豊富さがすばらしい。一つ私も購入しました。

〒232-0055 横浜市南区中島町4-85
http://www.gumyouji-shoutengai.com/cnt
●藤方豆腐店
http://www.gumyouji-shoutengai.com/cnts/shop_list/?c=000457314320
そごう横浜店地下食品街にも出店しています。

●マコト
レストラン マコト
http://www.gumyouji-shoutengai.com/cnts/shop_list/?c=000457418033
ハンバーグランチを食べました。
ソースのさっぱり感が絶妙でした。とかく濃いめが多い中、
あっさりソースが肉の味をしっかり楽しめました。

●地元で噂のパン屋さん
デュークベーカリー
種類の多さは驚きです。
あんぱんが美味しかったです。

盛光堂総本舗
http://www.gumyouji-shoutengai.com/cnts/shop_list/?c=000457313395
最中が人気です。

【第四スポット】
「大岡川」
●桜

●水辺周遊


【第五スポット】
「名人登場」
●街場の博士
酒学工房 川松屋の川松博士
※この川松屋さんでは なんと ルバイアートが置いてあります。
 国産ワイン数々あれど、この「ルバイアート」は私が推薦して止まない逸品です。
 中々横浜には置いてないんですね。
 常連に!なります。

●マイスター
印鑑なら国峰さんの彫りがおすすめです。
http://www.kunimineinbou.co.jp

【番外編】
弘明寺駅の貴重品
プロダクトデザイナー柳 宗理デザインの横浜市営地下鉄駅設備デザインを手がけました。
彼は、1970年に野毛山動物園歩道橋や看板もデザインしています。
現在、蒔田駅や弘明寺駅などに設置されています。
弘明寺は「背もたれサポーター」と「ベンチ」が現役で残っています。
もうひとつ弘明寺のお宝追加します。
昭和初期の公衆トイレという話しです。中は新しいですよ。
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