2012年8月22日水曜日

No.235 8月22日 (水)103便とラジカル関東

1981年(昭和56年)8月22日(土)
台湾・台北松山空港発高雄行きの遠東航空103便ボーイング737-200(機体記号B-2603)が、台北を午前9:54に離陸して10数分後のことでした。
台北の南南西約150キロメートルの苗栗県三義郷上空高度22,000フィート(6,700メートル)を巡航中に突然空中分解し、山中に墜落しました。
乗客及び乗員合わせて110名全員が死亡する大惨事となりました。
この遠東航空103便で亡くなった乗客の中に一人の女性作家がいました。

向田邦子、享年51歳でした。
急ぐようにヒットを飛ばしていた彼女が、一回り円熟し次へのステップを歩み始めようとしていた矢先の事故でした。
1929年(昭和4年)11月28日東京都世田谷区若林に生まれ父の仕事の関係で全国を転々と引越を繰り返しながら育ちます。
大学を卒業後、映画雑誌編集記者を経て放送作家の道を歩みますが、駆け出しのフリー作家となった彼女は横浜野毛山のラジオ局に通い詰めた時期があります。
『洋楽のラジ関』ラジカル関東とも呼ばれたJORFラジオ関東です。
「ラジオ関東」は1958年(昭和33年)8月15日(金)に神奈川の独立系ラジオ局として横浜市西区老松町に設立され、この年の12月24日(水)から放送を開始しました。
ラジ関”草創期の1961年(昭和35年)に『森永フレッシュコーナー』という人気番組が登場します。
ここでDJとしてデビューした水垣洋子は個性的な甲高い声質で一躍人気タレントになり多くのファンを夢中にさせました。
この『森永フレッシュコーナー』の放送台本を手がけていたのが向田 邦子でした。
現在放送電波塔が野毛にあり社屋は長者町に移りました。
翌年の1962年(昭和37年)に始まるTBSラジオの「森繁の重役読本」脚本で脚本家として地位を確立する直前のことでした。
この「森繁の重役読本」は、1969年まで計2,448回放送されます。
この7年間の蓄積が、後の向田文学の基礎になります。
その後、
森繁主演の『だいこんの花』
久世光彦 演出のメガヒット『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』
『父の詫び状』(エッセイ)
NHKの奇才和田勉の『阿修羅のごとく』と70年代のテレビドラマをジャックします。

向田邦子の駆け出し時代を過ごしたラジ関は創設から60年代、自らの小説「海をみていたジョニー」に「ラジ関」をシーンに描いた五木寛之が番組の構成などを担当していたことは有名です。
※昭和55年/1980年上半期に「花の名前」その他2篇で第83回直木賞を受賞しますが、審査委員の一人が五木寛之でした。

また、大橋巨泉、前田武彦、はかま満緒(現在もアール・エフ・ラジオ日本で現役番組進行中)などその後のテレビ界をリードするメンバーが「ラジ関」に関わりました。
『洋楽のラジ関』黄金時代と言われたメンバーが輩出します。
残念ながら、今は「ラジオ関東」創設時ほどの横浜らしさは無くなってしまいました。「アール・エフ・ラジオ日本」と名称変更しその後、日本テレビの傘下で運営され(日本テレビ系ラジオ中波放送)、現在は東京のスタジオ発信がほとんどです。「YOKOHAMALohas」他横浜本社発の番組も僅かにありますが、さらに横浜らしさを追求して欲しいと思います。
http://www.jorf.co.jp
「アール・エフ・ラジオ日本」はネットでラジオが聞けます。
http://radiko.jp(一部著作権上配信されないものもあります)

(余談です)
遺品は「かごしま近代文学館」に寄付されましたが、向田の母・せいの意向だったそうです。
小学生の頃、父の赴任に伴い鹿児島県鹿児島市で数年を過ごします。
その時の思い出が代表作エッセイ『父の詫び状』に詳しく綴られています。
亡くなる直前に企画で鹿児島を訪問し「故郷の山や河を持たない東京生れの私にとって、鹿児島はなつかしい「故郷もどき」なのであろう。」と書き残した関係か
母は「鹿児島に嫁入りさせよう」と決めたようです。
http://www.k-kb.or.jp/kinmeru/index.html

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