2012年8月21日火曜日

No.234 8月21日(火)パーセプションギャップの悲劇

日本の歴史の中で幕末ほど複雑な時代は無い!と言われます。
中でも“何でもあり!の文久”の頃は、年表を眺めるだけでも事件だらけ。
その代表格が文久二年八月二十一日(1862年9月14日)の今日起った「生麦事件」です。
詳しくはいろいろネットでも書籍でも判りますので、ここではざくっとまず事件の概要を紹介します。
現在、生麦に設置されている情報板
事件頻発の文久時代の事件一覧です!
■文久元年(1861年3月28日〜)
・ポサドニック号事件(ロシア、イギリス)
 No.34 ‎2月3日 ポサドニック号事件で咸臨丸発進
 http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/02/23_03.html
・第一次東禅寺事件(イギリス 水戸藩)
■文久2年
・坂下門外の変(尊王攘夷派 水戸浪士)
・寺田屋事件(尊皇派 薩摩藩)
・第二次東禅寺事件(イギリス 松本藩)
・生麦事件(イギリス 薩摩藩)

(生麦事件以後)
・英国公使館焼き討ち(イギリス 長州藩)
■文久3年
・イギリスが幕府に東禅寺事件と生麦事件の賠償金合計11万ポンドを要求。
 戦争になるとの噂が流れ、多くの日本人が横浜を脱出します。

・新撰組の誕生(壬生浪士の誕生)
・長州藩、下関で外国商船を砲撃
・米国、下関に報復攻撃
・フランス、下関に報復攻撃。上陸し一部砲台を破壊。
・薩英戦争
・八月十八日の政変

3年の間に、国内は勿論列強各国と事件が多発します。
幕末で最も外交関係が緊張した時期です。
そのキッカケとなったのはイギリス公使ラザフォード・オールコックらを水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名が襲った「第一次東禅寺事件」です。
そして「生麦事件」の勃発です。
脱藩藩士による「第一次東禅寺事件」と違って、薩摩藩主の一行が東海道を京都に向かっている途中、東海道で乗馬を楽しんでいた英国人4人と遭遇、薩摩藩士が護衛のため斬りつけ死傷者が出るという事件です。
薩摩藩主 島津久光の一行約400名の陣容での上京でした。
開港以後、街道を重要な一行が通る場合、幕府は横浜居留地に事前連絡する手はずでしたが、今回の薩摩藩の行動は通知されていませんでした。

当時、島津久光は江戸で重要な「公武合体運動推進」のための久光提案(三事策)を幕閣に承認させ幕府の政策転換の準備万端!
目標達成の高揚感の中、京都に戻る途中でした。
一方のイギリス人4名の行動ですが、
「アーネスト・サトウの日記」『横浜どんたく」等を読む限り、どうも腑に落ちない点が多いのですが、イギリス人達も、甘く考えていたようです。
薩摩も最初から切り捨てる意思は無く、パーセプションギャップの悲劇といえるでしょう。
得てして 歴史はこのようなキッカケで激変するものです。

この生麦事件で薩摩藩と鹿児島で薩英戦争が起こり、英国は薩摩のある意味実力を知り、外交方針を大きく変更します。
またこの事件以降、薩摩藩も大きく変化し英国と接近していきます。


(生麦事件の企画展)
2012年
横浜市歴史博物館「生麦事件と横浜の村々」(〜9月23日)が開催されました。
http://www.rekihaku.city.yokohama.jp/kikak/detail.php?ak_seq=114


(変貌する生麦)
2012年は生麦事件が起って150年目ということで、
冒頭の案内通り企画展が行われました。
そして、もう一つ生麦は今、横浜環状北線工事で大きく変わろうとしています。
(第三京浜と首都高速横羽線がつながります)
http://www.yokokan-kita.com

キリンビールと崎陽軒の工場が結ばれる?
「きたせん」は、第三京浜道路 港北ICから首都高速神奈川1号横羽線 生麦JCTまでの8.2kmを結ぶ路線で、キリンビール生麦工場の脇から、崎陽軒横浜工場の脇まで地下と鶴見川沿いに建設されます。
2012年の看板です
この「首都高速神奈川1号横羽線 生麦JCT」付近の工事エリアに
「生麦事件の現場」が含まれるために現在「記念碑」は臨時移転しています。
これらを含めて 生麦エリアを散策する良いチャンスかもしれません。

(国道駅から生麦まで)散策レポートは 番外編で紹介します。
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/08/blog-post.html

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