2012年6月6日水曜日

No.158 6月6日(水) 休暇をとって日本支援!

サー・ラザフォード・オールコック(Sir Rutherford Alcock)
彼の名は歴史教科書で少し学ぶ程度でしょうか。
オールコックは初代イギリス駐日総領事(後に公使)となりその後の日英関係に重要な役割を担った人物です。
1862年(文久二年五月九日)6月6日(金)の今日、文久遣欧使節団と英国政府の条約改正交渉を彼のサポートで成功させます。
オールコック像
日本政府(幕府)はペリー来航がキッカケで五カ国と通商条約を1858年(安政5年)個々に結びます。
歴史では安政五カ国条約と呼ばれています。

※意外と知られていない事実
安政五カ国条約の正式名はそれぞれ日米修好通商条約・日英修好通商条約・日仏修好通商条約・日露修好通商条約・日蘭修好通商条約で、内容が国ごとに異なっています。
例えば英米の修好条約 開港地が異なります。
(オールコック赴任)
1858年8月26日(安政5年7月18日)イギリス代表エルギン伯爵ジェイムズ・ブルースと江戸幕府の間で日英修好通商条約が調印されました。
外交担当老中、太田備後守資始とエルギン伯爵との会談風景(英国側スケッチ)
条約締結時の通訳は語学の秀才、森山多吉郎でした。

No.412 多吉郎、横浜に死す。
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/02/no412.html
No.413 あるドイツ人の見た横浜
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/02/no413.html


この日英修好通商条約締結後、清国領事だったオールコックが駐日領事として赴任します。
彼は清国領事時代から就任初期まで対日(アジア)強硬派でしたが次第に日本政府(幕府)に理解を示すようになります。
もし、そのまま強硬姿勢をとり続けていたら、日本は空中分解していた可能性がかなり高いといわれています。
それは彼の人間的側面と優れた洞察力のおかげでしょう。
当時の幕府は 攘夷勢力がかなり強く「神奈川」開港をなんとか「横浜」に変更することに奔走している頃です。
締結された日英修好条約では
●神奈川・長崎・函館の港と町を1859年7月1日に開く。
●兵庫港を1863年1月1日に開港
●新潟(又は代わり)港を1860年1月1日に開くこと
●江戸と大阪の町を62年63年にそれぞれ開くことを条約で締結します。

(期限延長の要望)
ところが幕府内部で これはちょっと実現不可能そうだという大勢になります。
関係国に1868年1月1日まで五年待って欲しいと要望します。
オールコック以下各国領事は難色を示しますが、オールコックは交渉担当者との信頼感と時の情勢分析で延長を認める方向に転換します。
しかし政情は極めて不安定でした。
水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名がオールコックらを襲撃する東禅寺事件が起ります。
オールコックは無事避難しますが、攘夷の根深さを体験します。
これをきっかけに公使館を品川から安全な横浜に移します。
そして条約内容の変更要請のために派遣される事になったのが
「文久遣欧使節」です。
竹内保徳(下野守)以下総勢38名で、段取りはオールコックがフランス公使に相談し、費用も含めて英仏が負担します。
遣欧ルート「福沢諭吉の西航巡歴」山口一夫 より
(旅程)
長崎→英領香港→英領シンガポール→英領セイロン→英領イエメン→エジプト・スエズに上陸、鉄道でカイロ→アレクサンドリアに出て、船で地中海を渡り英領マルタを経て、マルセイユ経由パリに入ります。
残念ながらフランスとの延長交渉は決裂します。
その後、
カレーから英仏海峡を横断、1862年4月30日水曜日(文久2年4月2日)ロンドンに到着します。
この時、
オールコックは休暇申請し日本の使節団を追いかけます。英国に帰国し
1862年6月6日金曜日(文久2年5月9日)ロンドン覚書が無事調印されます。
実はこの行動が、後に問題になりますが日本にとって彼の存在が米国にも影響し、明治維新をソフトランディングさせる下地づくりができ上がります。
オールコック不在の日本では、大事件が起ります。
使節団が英国を去った頃、第二次東禅寺事件(1862年6月26日)が起こり死傷者が出ます。
(何故か代理公使は公使館を横浜から元の東禅寺に戻してしまいます)
治安悪化、幕府の後手後手の対策、表面化する薩摩藩の単独行動。
薩英戦争前夜まで緊張感が高まっていました。

(日本人初めての万国博)
日本使節団は第2回ロンドン万博の開幕式に賓客として招かれます。何度も会場を訪ねて熱心に見物し、特に機械に興味を示します。また、万博会場以外にも電信局、海軍工廠、造船所、銃器工場などを見学し様々な先端技術を精力的に吸収していきます。
この使節団に加わっていたのが後に西洋事情を著した福沢諭吉です。
彼がExhibitionを「博覧会」と訳したといわれています。
福沢諭吉らが撮影した集合写真
(福沢諭吉のヨーロッパ経験に関しては 故山口一夫さんにご存命の頃いろいろご教授いただきました)

(余談)
オールコックは、最初に富士山に登った外国人です。
オールコック等が富士登山を恐ろしがるかわら版
■昨日の役に立たないクイズの答
朝倉響子さんの「ニケとニコラ」ですが、
関内Hの横にあります。


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下記にて移行継続中です。

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