2012年6月30日土曜日

No.182 6月30日(土)珍しい幕末台場が眠る街

横浜市神奈川区神奈川一丁目に江戸末期の台場が埋もれています。
このテーマは、かなりメディアでも取り上げられてるのでかなり知られるようになってきました。
取上げるのは何時にしようか迷っていたところですが、
「横浜市は、幕末に勝海舟が設計し、神奈川区沖に築かれた砲台「神奈川台場」の発掘調査を2008年6月30日から始めた。」という(新聞発表)の日に紹介することにします。
明治期の台場図、左上斜めに鉄道が開通しています
現在と重ねてみました(ちょっとマップが古い!)
(概要)
調査は過去に何回か実施されていましたが、
今回(2008年6月30日)の調査は、台場と陸地を繋ぐ
「西取渡り道(にしとりわたりみち)発掘調査」が行われました。
場所は、古地図では一目瞭然ですね。
でもこれが現在どこか?
というと横浜通でも実際足を運んでみないと中々分かりづらくなっています。
京急仲木戸から徒歩十分くらいです。(バスもあります。コットンハーバー行き)
古地図上、横浜港に突き出ているのが横浜台場です。
東京のお台場が有名ですが、幕末期全国に数多くの「台場」が作られました。
四方海に囲まれている日本にとって海岸線(港)の防衛上不可欠な要塞でしたから全国急ピッチでお台場造りが進められました。
 (約1,000箇所ともいわれています)

この神奈川台場は、幕府より神奈川湊近辺の警備を命じられた松山藩(現在の愛媛県松山市)が勝海舟設計のもとに1859年(安政6年5月)に着工し、1860年(万延元年6月)に完成したものです。
※実質は勝海舟に丸投げ!だったという記録もあるようです。
扇型に近い形状で3つの稜堡(りょうほ.凸角部)がつくられ、函館の五稜郭と同様にヨーロッパの大砲を使用する対近代戦用の稜堡式(りょうほしき)築城形式が採用されました。
この神奈川台場、他のお台場とは少し役割が異なり
 “多目的”だった点が注目されます。


(数ある台場でも貴重な存在)
神奈川台場、軍事施設であると同時に、他の台場には見られない船溜まりという構造を持っていました。
また、諸外国の外交団が来日した時や外国の国王・大統領の誕生日などに儀礼として祝砲を発射する施設として利用された記録が残っています。
国際港湾都市横浜に相応しい施設だったといえるでしょう。
総面積は約2万6千平方メートルで、埋立には付近の権現山(神奈川区幸ヶ谷(こうがや)、幸ヶ谷公園付近)の土砂が使われました。

(忘れ去られた遺構)
この神奈川台場は、1899年(明治32年)2月に廃止され、大正時代あたりから周囲の埋め立て事業によってまさに“埋もれて”しまいます。
石積みがしっかりしています。


発掘された遺構
(蘇るのか開港場の遺構)
このお台場、過去に何度か保全計画が持ち上がったようですが、全て計画だけで今回の発掘を待つしかなかったようです。
ただ、埋め立てたままであるということ、中心部はJR貨物の東高島駅で掘削等を殆ど行っていないことから、まだまだ保全には期待が寄せられています。
一部ですが、開港150周年を記念して、神奈川台場公園の敷地内にその石積みが復元展示されています。
さらに、

■参考リンクが多くありますので一部を
http://www.city.yokohama.lg.jp/kankyo/park/make/kanagawadaiba.html
http://boso-cycle.blogspot.jp/2011/02/blog-post_13.html
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1110010016/

http://castle1.exblog.jp/15444965/
http://castle1.exblog.jp/15382223/
http://castle1.exblog.jp/15401750/

http://www.katsu-iwai.com/katsusable/index.html

■マンション内資料室で公開
日本人はどうも「形」が見えないと関心が高まらないようですが、2012年(平成24年)5月に、遺構を個人的に公開した方々がいます。
これで、さらに神奈川台場へのリアリティが増して来ると期待されています。
詳しくは
http://www.hamakei.com/headline/6987/
「営業時間は10時〜23時。入場料は大人100円、子ども・学生無料。資料室はレンタルホール(有料)としての貸し出しも行っている。問い合わせは栄光(TEL 045-441-5465)まで。」

※余談
幕府より神奈川湊近辺の警備を命じられたのが松山藩
開港場付近の警備を命じられたのが越前松平藩
 越前松平藩の警備本部(陣屋)が日ノ出町駅近くに作られました。

No.382 1月16日(水)横浜と福井
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2012年6月29日金曜日

No.181 6月29日(金) オーシャンビューの35棟解体

1959年(昭和34年) 6月29日(月)の今日、米軍に接収されていた山下公園が“一部解除”されたことを祝う式典が行われました。
山下公園周辺図
終戦の年、1945年(昭和20年)8月30日(木)あのコーンパイプを片手に厚木基地に降り立ったマッカーサーがその足で横浜の「ホテルニューグランド」に向かったところから戦後が始まります。
山下公園は早速接収候補になります。占領軍の住宅がかなり不足していたからです。
横浜は、戦後最初に占領された大都市でした。
将校・軍属・下士官などの家族住宅を建てる名目で「山下公園」が接収されたのが9月2日(日)でした。
その他
横浜港近辺は殆どが接収されることになり、日本人は殆ど海辺(港)に出られない状態が始まります。
この頃、山下公園には「氷川丸」も「マリンタワー」もありません。
山下公園一帯には、35棟のオーシャンビュー住宅が建設されました。

占領時のマップから想像すると海に面した一等地にゆとりの住宅です。
一区画が広いですね。
山下公園の接収解除には時間がかかりました。
多くの接収地が変換される中、返還に6年かかります。
おそらく、ココに住んだ米軍幹部は、ロケーションが気に入ったからでしょう。
※余談ですが、米軍は占領地横浜に“好き勝手に”通り名を付けています。
 水町通りは? アラバマ通り
 ケンタッキー通りもあります。
米軍施設返還開始期間
(1954年(昭和29年)6月2日〜1960年(昭和35年)6月15日)
山下公園は、完全返還前に一部返還式が1959年の6月29日(月)に行われました。
返却理由の真相は判りませんが、この時代は日米安保闘争のまっただ中であったことは間違いありません。

■時の両国トップ
アメリカの大統領はドワイト・アイゼンハワー
日本の首相は岸信介
横浜市長は17代半井清
(1941年(昭和16年)2月10日〜1946年(昭和21年)11月30日
13代市長を務めました。平沼市長死去に伴い出馬当選)

■接収された施設の一部をリスト化しました。
サウス・ピア海岸通
(大桟橋)1945年(昭和20年)9月2日〜1952年(昭和27年)2月15日
新大桟橋
ルー・ゲーリックスタジアム横浜公園
(横浜公園球場)1945年(昭和20年)9月25日〜1952年(昭和27年)4月8日

PX写真工場吉田町
(都南ビル)1945年(昭和20年)10月2日〜1955年(昭和30年)7月22日

オクタゴン劇場長者町
(横浜松竹映画劇場)1945年(昭和20年)9月11日〜1955年(昭和30年)11月21日

高射砲陣地岡村町
(岡村公園)1951年(昭和26年)1月27日〜1966年(昭和41年)3月29日

グランドホテル山下町
(ホテルニューグランド)1945年(昭和20年)8月30日接収
1951年(昭和26年)8月13日〜1952年(昭和27年)7月24日段階解除

横浜スペシャルサービス・クラブ
(不二家) 1945年(昭和20年)9月24日接収
1952年(昭和27年)5月15日〜1958年(昭和34年)5月15日解除

2月10日 不二屋伊勢佐木町店新築開店
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ミンドロ・コート山下町
(英一番) 1945年(昭和20年)10月14日接収
1952年(昭和27年)8月1日〜1954年(昭和29年)5月17日解除

■現在も接収されている主なところ
深谷通信所深谷町(旧海軍通信隊) 1945年(昭和20年)9月2日〜
上瀬谷通信施設瀬谷町(旧海軍倉庫) 1951年(昭和26年)3月15日〜
池子弾薬庫六浦町(旧海軍第二工廠造兵部谷戸田充填所) 1945年(昭和20年)9月1日〜※逗子市だけではなく横浜市にも接収地があります。
他に返還が決まっていて まだ米軍の管理下にある施設等も幾つかあります。

■山下公園関連ブログ
2月12日 “浮浪者狩り”
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/02/212.html
3月2日 みらいと歴史をつなぐ道
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/03/32.html
No.80 3月20日 西洋理容発祥の地、横浜
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No.105 4月14日 白の悲劇
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2012年6月28日木曜日

No.180 6月28日 横浜能楽堂、その点と線

1996年(平成8年6月28日)の今日、
横浜市西区紅葉ヶ丘に横浜能楽堂が開館しました。
この能楽堂にある能舞台は関東地区で最も歴史あるもので横浜市指定建造物に指定されています。
横浜能楽堂を巡る様々な物語を簡単に紹介します。
(という割に長文でごめんなさい。プリントして読んでください)一部修正しました。
能楽堂外観
横浜能楽堂(よこはまのうがくどう)は、横浜市西区紅葉ヶ丘27-2掃部山公園の一角にある横浜市の能楽堂です。
現在は指定管理者制度により公益社団法人横浜市芸術文化振興財団が運営しています。
周辺には掃部山公園、音楽堂、県立図書館、青少年ホール等が隣接する知のなごみ空間です。
散策ルート紹介
この横浜能楽堂の能舞台は、
移築復元されたもので1875年(明治8年)に
東京・根岸の前田斉泰邸(加賀藩邸)に建てられました。
設計は東京帝国大学工科大学建築学科出身の山崎静太郎が担当し、鏡板に描かれた松、白梅、根本の竹が極めて珍しい構図となっているのが特徴です。
珍しい白梅、根本の竹
その後、1919年(大正8年)に東京文京区染井にあった華族(元高松藩主)松平頼寿の母千代子さんが隠居されていた所に能舞台を移築されたことから「染井能舞台」と呼ばれるようになりました。
※母 千代子 彦根藩主、大老だった井伊直弼の次女にあたります。
当時都内にも多くの能舞台があったそうですが、関東大震災と戦災で4カ所だけ残った内の一つです。
戦後、昭和20年〜30年頃までは、
宝生流を中心に能再興の本拠地として全盛を極めました。
また松平頼寿は、現在の本郷学園創設者だったところからここの生徒達は年に何回か能を鑑賞する機会があったそうです。
(実は父が3年時編入の本郷中学出身で、卒業証書には松平頼寿の名が在り
 能楽堂の話しを聞いたことがあります)
1955年(昭和40年)になり、この「染井能舞台」は老巧化が激しく再建を断念し解体されました。
その後、宝生能楽堂の倉庫に保管されていましたが、1979年(昭和54年)解体された部材が横浜市に寄贈されることになりました。
横浜市は最大限の復元をめざし部材の大部分を使って“横浜能楽堂”として
復元再生することになります。
新能楽堂建設には当初予算等の課題が山積し完成には時間がかかりました。
全体設計を大江匡(大江匡建築事務所)が担当し
1996年(平成8年)3月に見事竣工しました。
http://ynt.yafjp.org/
東京根岸から染井へそして横浜紅葉ヶ丘へと“うつろい”ましたが、
能の心は新しい舞台の下で受け継がれています。
落雁がおすすめです

(横浜能楽堂を繋ぐ因縁)
この横浜能楽堂の「舞台」を設計した山崎静太郎には不思議な横浜との縁があります。
東京帝国大学工科大学建築学科時代の同期で親友となった仲間に、
●大熊喜邦(おおくま よしくに)
妻木頼黄・矢橋賢吉の後を引き継いで国会議事堂の建設を統括し、横浜銀行協会、帝国劇場、山口県庁舎・議事堂の設計にも関わった建築家です。
●後藤 慶二(ごとう けいじ)
日本建築界の構造学者としては草分け的存在。
コンクリート構造に関する論文を多数執筆発表ました。
絵画、俳句、能等の芸術にも造詣が深く、建築作品に活かしています。(36歳で死去)

そして
●咲壽栄一(さくじゅえいいち)
1884年(明治18年)横浜電気株式会社の常務取締役上野吉二郎の長男として東京の京橋に生まれました。
1893年(明治27年)に横浜市吉田小学校へ転校、神奈川県立第一中学校へ入学します。
京都市第三高等学校を経て、東京帝国大学工科大学建築学科に進み山崎清太郎、後藤慶二、大熊喜邦ら上記の仲間達に出会います。
卒業後大蔵省臨時建築部に入り、のちに大蔵技師。
妻木頼黄とともに設計にあたりますが30歳という若さで逝去します。
墓所は横浜市磯子区の根岸西有寺墓地です。
咲壽栄一は惜しくも30歳という若さで亡くなりましたが、その間短い時間ではありましたが大蔵省臨時建築部で多くの税関設計に関わってきました。また俳人としても非凡な才能を表し短い人生に詠んだ句はおよそ3万句もあったそうです。
彼が亡くなった後、山崎静太郎が中心となって咲壽栄一遺稿集「卯木集」を出版します。咲壽は卯花(ウツギの花)を好み、俳号「卯木屋」と読んだそうです。
横浜電気株式会社の常務取締役上野吉二郎の長男ですが、母方の高橋家の祖母の姓を名乗り咲壽栄一(さくじゅえいいち)として活躍しました。
この高橋家が、現在の「株式会社ダニエル」を創業し横浜クラシック家具の伝統を守っています。
「株式会社ダニエル」http://www.daniel.co.jp/



(まだある横浜能楽堂)
長くなりますが 分けずに一気にいきます。
東京と文京区根岸の前田斉泰邸に建てられた「根岸能楽堂」を我が母のために文京区染井に移築した松平頼寿は、最後の高松藩主だった松平頼聰の八男でした。
頼聰はあまり評判が良くありませんが、母となる千代子は善き母だったようです。
この母千代子は、井伊直弼の次女として生まれ幕末明治、大正、昭和まで生き抜いた女性です。
彼女の生涯も物語になる波乱万丈の人生だったようです。
この横浜能楽堂の建つ敷地は、開港50周年に際し井伊家から寄贈された掃部山公園(かもんやまこうえん)です。
平成に建った能楽堂の窓から井伊 直弼像を眺め観るとは…。
画像が飛んでいますが右側の窓から像が見えます

(見学フリーデーがありますので是非 中をご覧ください)

もう一つの貴重な能舞台
「久良岐能舞台」
http://www.kuraki-noh.jp



(おまけ)
今日6月28日は、「貿易記念日」です。
1963年(昭和38年)、自由貿易推進の為に閣議決定し、通商産業省(現在の経済産業省)が実施を決めました。
FTAとかTPPとか、最近議論になっていますが、
1859年(安政6年)5月28日(新暦6月28日)、徳川幕府がロシア・イギリス・フランス・オランダ・アメリカの五か国に、神奈川(横浜)・長崎・箱館(函館)での自由貿易を許可する布告を出し、港を開港、同時に「運上所」(税関)が設けられました。
貿易に携わる企業だけでなく、ひろく国民全般が輸出入の重要性について認識を深める日として設定したそうです。
FTAとかTPPについて 考える一日(では済みそうにありませんが)にしてみましょう。
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2012年6月27日水曜日

No.179 6月27日(水)電気が夢を運んだ時代?

今日、6月27日は何をテーマにするか?
迷いました。
選んだキーワードは「発明と博覧会」です。
内国勧業博覧会の図
6月27日といえば、
第一候補は、文久3年5月12日(1863年6月27日)長州五傑「井上聞多(馨)」「遠藤謹助」「山尾庸三」「伊藤俊輔(博文)」「野村弥吉(井上勝)」の5名が英国留学のため横浜を密出国した日です。このテーマは旧暦5月12日ネタにしました。
No.444 "Choshu five"NOMURAN,Yokohama
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/05/no.html

超マイナーでは、神奈川県警神奈川署が明治17年に「署」に昇格した日です。
これはこれで神奈川の初期警察の話しで面白い。
(だから?ネタだし…)

もう一つが、
1882年(明治15年)神戸・横浜などの7港に悪疫防止のため船舶検疫制度実施された日です。横浜の防疫体制確立はかなり切羽詰まったテーマです。
(これは森鴎外、野口英世 含めネタを練らねば…)

ということで、今日はこのブログらしく
 もっと横道系にすることにしました。
知らない方も多い?何でしょう?
1877年(明治10年)6月27日(水)横浜の発明王といわれた山田与七が、「クロモジから香水・香油・香煉油をとること」を発明?!した日なんだそうです。
また、
「犬榧子(やまがやのみ)からペンキ用のボイロ油を絞ることを発明した」?というデータを歴史年表の片隅に発見しましたので、ここから横浜を掘ってみます。

山田与七という名は、このブログでも既に登場した人物です。


「No.127 5月6日 あるガーナ人を日本に誘った横浜の発明王」の山田与七です。

http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/05/no12756.html

与七は、名古屋に生まれ明治維新早々
横浜で事業を起こそうと考えた多くの「ハマの起業家」の一人です。
神奈川芝生村(かながわしぼうむら)に居を構えました。
※芝生村は音が良くないということで、後に廃止された町名ですが現在の西区浅間町あたりで交通の要所です。ここに追分(大山街道と東海道)があります。
芝生村あたり(現在の浅間町)
山田与七は、横浜で送電用の電線を製造する会社を起こし「電線製造」の先駆的役割を果たした人物です。
銅線を布で巻き絶縁した電線(袋打ちコード)を作り成功します。今でも使われていますが、古い民家などには布の電線が陶器ガイシを伝い使われていました。
綿コードと陶器碍子が現役の山形「山居倉庫」
この電線、材質は銅線が一番で電気の普及と共に需要が急増した工業製品です。
山田与七は1884年(明治17年)頃、高島町に山田電線製造所を作り成功します。
山田電線 創業の高島9丁目あたり(現在の神奈川区金港町)
1896年(明治29年)には横浜商人の木村利右衛門、原富太郎らの出資を得て横浜電線株式会社となり、裏高島の工場で次世代電線のゴム被覆線の製造に着手します。
当然ですが、電線には「銅線」が、絶縁には「ゴム」が必要になります。紆余曲折ありこの「銅線」製造部門が古河鉱業(古河電工)に、「ゴム」製造部門が横浜ゴムとなり現在に至っています。
その工場がある場所が「平沼橋」
TVKプラザ横浜近辺です。
http://www.tvk-plazayokohama.jp/

横浜イングリッシュガーデン
http://www.y-eg.jp/


まだ古河の施設が残っていた頃
ここまでの話しは「No.127 5月6日」の延長線ですのでおさらいも兼ねました。

■1877年(明治10年)6月27日

「クロモジから香水・香油・香煉油をとること」
「犬榧子(やまがやのみ)からペンキ用のボイロ油を絞ることを発明した」
このあたりを掘ります。
クロモジから香水・香油にするのは古来からあった技術で、
いまさら横浜の発明王が“発明する”話しではないはずです。
では?
量産のための製造機器の発明だろう推測できます。
調べてみました。
※クロモジ 高級な爪楊枝として使われている落葉低木で明治期には香料として欧州方面へ輸出されていた人気商品だったそうです。
イヌガヤ
もう一つのデータ、「犬榧子(やまがやのみ)からペンキ用のボイロ油を絞ることを発明した」(原文ママ)の犬榧子は(やまがや)とは読まない?
正しくはイヌガヤ科イヌガヤ属の常緑小高木の針葉樹で「イヌガヤ」があるがこれでは?
さらに、ペンキ用のボイロ油とは何だ?
一瞬ボロイと読んでしまいました。
これらの情報から、
私流に修正すれば、犬榧の実を絞ってペンキ用のボイル油を大量に精製することに成功したということのようです。
本州エリアには広く分布する犬榧の種子には良質の油が含まれているので大昔から油を絞り寺社の灯明に利用したと文献に書かれています。
クロモジも同じ蒸留手法です。
では山田氏は何を発明したのか?
ヒントがもう一つありました。
彼は日本の最初の産業見本市「内国勧業博覧会」に第一回から第四回まで出品しているというところから、何か装置、工業製品を発明したようです。
それは、蒸留装置と推測できます。
クロモジの油も、イヌガヤの油も水分を多く含んだ油ですので
蒸留による(量産用)分離装置を発明したのではないでしょうか。
イメージ図です。実際のものとはたぶん全く違うと思います。
第1回内国勧業博覧会
1877年(明治10年)8月21日〜11月30日
※会場は3回まで上野公園
第2回内国勧業博覧会
1881年(明治14年)3月1日〜6月30日
第3回内国勧業博覧会
1890年(明治23年)4月1日〜7月31日
第4回内国勧業博覧会
1895年(明治28年)4月1日〜7月31日
※会場を京都市岡崎公園に移します
(関連ブログ)

No.213 7月31日 (火) 金日本、銀日本
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/07/no213-731.html

1877年(明治10年)6月27日という月日ともほぼ一致します。この博覧会に関する記述に

「他に特筆すべき出展品はあまりないが、浅沼藤吉(浅沼商会)、杉浦六右衛門(のちの「コニカ」)、山田与七(現「古河電気工業」)ら、今に続く企業の創始者達の出展が目を引く。内国勧業博覧会は商品宣伝の場としての地位を得て、民間にも活用されつつあったようだ。」

とありますから山田与七は発明品のPRに博覧会をおおいに活用したことがわかります。

(推測のまとめ)
山田与七はクロモジの香料を抽出する装置は欧州市場拡大で成功。
犬榧の実でペンキの溶剤を精製する装置でも国内市場で成功し
電線事業に転換したのではないでしょうか。
電線製造には広い工場が必要になってきますから、
その資金源が「オイル」だったのかもしれません。
最初の電線会社が高島町の線路脇(土地が安かった?)で、その後規模を拡大しながら平沼に移ります。
山田与七
あまり歴史の表舞台には登場しませんが、日常の喜びを発明し、社会の夢を形にしていった“横浜物語を象徴する人物”の一人であることは間違いありません。
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2012年6月26日火曜日

No.178 6月26日(火)孟買への道


1965年(昭和40年)6月26日(土)
インド共和国の最大都市ムンバイと横浜市は姉妹都市締結を行いました。
横浜市は世界の7都市と姉妹都市を提携しています。
その他に1都市と友好都市提携、7都市とパートナー都市提携し自治体レベルの国際交流を行っています。

友好都市提携締結当時、ムンバイはボンベイと呼ばれていました。
1995年に英語での公式名称Bombayを
マラーティー語表記でムンバイと変更することになりました。
漢字表記「孟買」はムンバイに近い表記ですね。

英国植民地時代よりの名称ボンベイといえば?
お酒に関心のある方なら高級ジンブランドのボンベイ・サファイア(Bombay Sapphire)を思い浮かべるのではないでしょうか。
英国統治下のインド時代にジンがマラリア予防の薬として飲まれていたことからの連想で名付けられたとされていますが、ブルーサファイヤとインドを重ねたイメージはヴィクトリア女王の肖像をあしらうに相応しいブランド力を維持しています。
ボトルに成分がイラスト入で入っています
(横浜印度物語のはじまり)
横浜とインドの関係は、開港とともに始まります。
英国資本の先駆けとしてインド植民地銀行が横浜に支店を出したことが最初です。
明治に入り様々な分野に居留地のイギリス商館従業員として多くのインド人が横浜で暮らしはじめます。
明治半ばに入り、インドは日本にとって重要な貿易国として存在感を現してきます。
国力を高めるために殖産興業政策の一環として紡績業の拡大を図るには主原料である「綿」を海外から求める必要に迫られます。
安くて品質の良い綿花生産国を日本政府は国を挙げて調査します。
結果、印度綿花が優良であることが分かります。
ところがそこに大きな課題が出てきます。
当時の遠洋航路の海運は、英国の世界最大級の船会社P & O Lineなどが独占状態で運賃は海運会社が主導してきました。

この時期に、一人のインド人が日本を訪れます。
1893年(明治26年)ボンベイの綿花豪商タタ(J. G.N. Tata)の来日です。
彼は日本郵船社長の森岡昌純、日本資本主義の父といわれた澁澤榮一、浅野財閥の創設者、淺野總一郎らに精力的に会見し独自の航路確保を提案します。
当時、すでに英国資本に対しても発言力を持っていたタタがP & O Line等と価格交渉をせずいきなり未知の国「日本」と航路交渉をしたのかは謎ですが、
タタは、日本/孟買間の航路開設の必要性を力説します。
世界に衝撃を与えたタタの自動車
(世界のタタ)
近年、タタ自動車で世界に衝撃を与えたインド最大の企業「タタグループ」(年商300億ドル)は、当時も綿花を中心に世界を相手に交易する商社でした。
日本という開国したての新人海運会社と共同で欧州の独占企業に対抗しようと提案した訳ですから、タタも日本側も大変な決断を必要としたでしょう。
※タタ財閥は、ちょっと不思議な企業で「世界で最も倫理に厳しい企業」といわれています。(当たり前であって欲しいですが)
提案を受けた「日本郵船会社」は1885年(明治18年)郵便汽船三菱会社と共同運輸会社が合併し誕生した若い海運企業でした。
資本金1,100円で、創業時の船腹数は58隻、64,600総トンで「横浜〜上海」「長崎〜仁川」「長崎〜ウラジオストック」沿岸11航路を開設します。
「日本郵船会社」のファンネルマークとして有名な白地に引かれた二本の赤いライン、通称「二引の旗章」はこの時の二社が大合同を現しています。
No.116 4月25日 紺地煙突に二引のファンネルマーク
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/04/no116425.html

(インド洋波高し)
当時、日本とインド間の航路は英・豪・伊の三国の海運会社が組織する「ボンベイ・日本海運同盟」が支配していました。
そこに新規参入するわけですから、
当然「本航路上のみならず、貴社の既得航路においても激甚な競争を試みる」という同盟側の強い警告と中止要求が出されます。
「日本郵船会社」は決断し、タタ商会と各1隻を提供しあい6週1回の定期航路の開設を決定します。1893年(明治26年)11月7日(水)第1船として廣島丸が孟買向けに神戸を出航し、日本初の遠洋定期航路がスタートします。
「ボンベイ・日本海運同盟」は資本力でダンピング攻勢をかけます。
二年にわたり「日本郵船会社」と「同盟」の我慢比べが続きます。
「我々は日本の代表として、内外の航路を自分たちの手に取り戻さなければならない」「自国の海運を守らなければならない」という国内紡績会社の団結も功を奏し、競争停止を申し入れたのは同盟側でした。
1895年(明治28年)11月にP & O Lineは英国外務省を通じて仲裁を申し入れてきます。
国内では賛否両論議論になりますが、
日本郵船側は計画中の欧州航路開設も考慮し、
1896年(明治29年)5月6日に同盟側と運賃合同計算契約を締結し、
国際的に認められることになります。

(綿でつながる横浜地場産業)
横浜の地場産業“横浜捺染”は、戦前スカーフは勿論モスリン、戦後インドのサリー染織、欧州ブランドの日本生産等で伝統と技術を維持してきますが産業構造の激変により多くの捺染企業が姿を消していきます。
しかし、現在も横浜捺染が生き残り世界最高級のプリントを発信し続けられるのは、インドと日本が綿を通じて欧米に並ぶ経済力を育ててきたからに他なりません。
インド共和国 国旗
(関連ブログ)
6月19日(火)虚偽より真実へ、暗黒より光明へ 我を導け
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■山下公園にインド水塔があることをご存知ですか?
別の日程でご紹介します。

No.353 12月18日(火)多文化建築の傑作
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/12/no3531218.html

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2012年6月25日月曜日

No.177 6月25日(月) 出られない出口

JR鶴見線が最近ローカル線として注目を浴びています。
特に海芝浦支線は「出ることのできない駅」「公園のある駅」として有名な「海芝浦駅」があることで、全国の鉄道ファンが訪れています。
この「海芝浦」の走る鶴見線は1904年(明治37年)6月25日(土)の今日、芝浦製作所として独立した(後に株式会社東芝)横浜事業所専用鉄道でした。
ホームの出口が 事業所の玄関です。
(芝浦製作所の歴史)
株式会社芝浦製作所は1875年(明治8年)に「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれ活躍した日本の発明家、田中久重(1799-1881)が設立した諸機械製造工場「田中製造所」に始まります。
当初経営が上手く運ばず
1893年(明治26年)三井家が継承し三井鉱山の資本下に入っていましたが経営も軌道にのり
1904年(明治37年)6月25日(土)に芝浦製作所となり、三井鉱山から独立したのです。発足時は資本金100万円だったそうです。
その後1939年(昭14年)に東京電気と合併し、東京芝浦電気(東芝)となりました。
芝浦製作所の名は、東京芝浦の地名から命名されたものです。
(京浜事業所)
鶴見線名物駅「海芝浦」ですが、もともと芝浦製作所の敷地内に専用貨物線として一つ手前の「新芝浦」まで作られた軌道で、1932年(昭和7年)に鶴見臨港鉄道が買収し開業したことに始まります。

※鶴見臨港エリアは明治大正の実業家の手で作られた工業地帯です。
 安田善次郎(安善駅)、浅野総一郎(浅野駅)、小野信行(鶴見小野)、白石元治郎(武蔵白石)等々
 人名由縁の駅名が連なっています。
1940年(昭和15年)に工場の拡大等で利用客の増加も見込まれることから新芝浦駅、海芝浦駅間 (0.8km) が旅客線として延伸し、「海芝浦」11月1日に開業しました。
元々、従業員専用で改札から「事業所」になりますので、
現在も関係者以外 出ることができません。
一応出ることは可能ですが目の前に「守衛室」がありますので、
一般客がアポ無しに通過することはできませんのでご注意下さい。
駅ですから
「海芝浦」駅に降立つことはできます。
事業所に用事のある一般の方は
一つ手前の「新芝浦駅」から「正門」を通過することになっています。
この「海芝浦駅」は従業員専用改札といえるでしょう。
※改札はどうするの?
 電子共通乗車カード用の端末が(構内に)設置されています。
 タッチしなくても折り返し電車には乗れますが、タッチ精算するのが
 ルール!です。
隣接するつるみ「ふれーゆ」おすすめ!
(絶景)
この駅は「海芝浦」の名にふさわしく
海に面しているというか“海の上”の駅のようです。
目の前に京浜運河が広がり、近年ブームの工場萌絵!にも最適な観光スポットとなっているようです。
おすすめは、夕暮れ日没前の水面に陽が反射する時間帯です。
終点「海芝浦」駅を“形式的”に出て絶好ポイント海芝公園で次の電車を待つのがここの過ごし方です。

(海芝公園)
「海芝公園」は海芝浦駅に隣接する東芝が管理運営している私設公園です。
2006年(平成18年)に横浜市と恊働事業として「京浜の森づくり末広地区協働緑化宣言」に沿ってこの海芝公園の拡張整備が行われ、素敵な海洋公園となっています。
入園は無料ですが釣りはできません。
開園時間は凡そ事業所の営業時間に沿って9時から20時30分までです。
※元旦のみ初日の出を拝む客のために始発電車の到着時に開園するそうです。(未体験)

1月20日 鶴見線「73型電車サヨナラ運転」
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