2012年5月29日火曜日

No.150 5月29日 記憶すべき記録、記録すべき記憶

1945年(昭和20年)5月29日の今日は五月晴れの穏やかな朝でした。
午前9時過ぎに突然姿を現した米軍機から降り注いだ焼夷弾はほんの一部を除いて横浜中心部を焼き尽しました。
歴史に言う「横浜大空襲」です。
以上横浜市HPより転載
Superfortress「超空の要塞」と呼ばれた米軍主力戦闘機B-29爆撃機が517機、護衛機P-51戦闘機101機による徹底した無差別焼夷弾攻撃が行われました。
この空爆により約8千〜1万名の死者が出ます。
先の3月10日には東京で未曾有の規模で「東京大空襲」が実施され、3月13日深夜に始まった「大阪大空襲」が行われていました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/東京大空襲
http://ja.wikipedia.org/wiki/大阪大空襲
これらの空爆は“効率よく破壊、殺戮するための手法”が採られたことが記録により明らかになっています。
空爆責任者カーチス・E・ルメイ少将をして、
「もし、我々が負けていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸い、私は勝者の方に属していた」と語らしめた意図的空襲でした。
横浜大空襲の場合、目視が可能な朝から行われ、焼夷弾攻撃で商工業地及び住宅地がどのように燃えていくか“データ収集のための実験的攻撃”といわれています。
(目標設定)
横浜空襲は爆撃の目標を5カ所に設定しました。
東神奈川駅、平沼橋、横浜市役所、日枝神社、大鳥国民学校です。
日本の住宅がどのように延焼したのか、米軍は関東大震災の記録を詳細に研究した上での「実証実験」でした。
目標設定があったものの、高高度からの絨毯爆撃の誤差が大東急湘南線(京浜急行)「黄金町駅」周辺に集中被害をもたらしました。
軍事施設の駐中していた神奈川区反町、保土ケ谷区星川町と住宅密集の南区真金町地区一帯の被害も大きく、壊滅的被害を受けました。
神奈川新聞特集より抜粋
海軍が一部施設として使用していた攻撃目標の一つ横浜市立大鳥小学校(本牧町大鳥1571-17)は焼け残り、戦後すぐに米駐留軍野戦病院として使用されました。
皮肉にも、敗戦後自宅で自殺を図った東条英機元首相の緊急治療にあたり一命をとりとめのがこの病院です。
東京裁判で死刑が確定した東条を含む七人の遺体は、処刑後横浜市保土ケ谷区にある久保山霊場で火葬され遺骨は米軍により東京湾に捨てられたことを付記しておきます。

この横浜大空襲の記憶するモニュメントがひっそり大通公園に建てられています。
平和祈念碑 由来之記
場所:横浜市中区弥生町4付近
建立日:1992年(平成4年)5月29日
「この人類至高の祈りが 志ある人々により継承発展され 犠牲者
も平和の使徒の先駆者として 至福の時を 共に迎える日の近きこ
とを信ずる。」横浜戦災遺族会

東京大空襲の記録は
東京大空襲・戦災資料センターとして情報公開されています。
http://www.tokyo-sensai.net/

(最後に)
1945年(昭和20年)4月27日から横浜大空襲の前日まで三回にわたって開催された新型爆弾の投下目標選定会議では、
第二回まで京都・広島・横浜・小倉
が設定され投下精度を上げるため“目標4都市への通常空襲禁止命令”が出されていました。
横浜大空襲から2ヶ月後の7月16日にアラモゴード実験場において行われた人類最初の核実験(トリニティ実験)が成功し、「核の時代」が始まりを告げます。

(余談)
5月29日は1937年(昭和12年)に 横浜市磯子区滝頭に生まれた美空ひばりの8歳の誕生日でもありました。
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現在は下記「横濱界隈通信」に移動しました。


http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/

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