2012年5月7日月曜日

No.128 5月7日 今じゃあり得ぬ組長業!?

1925年(大正14年)の今日横浜市長に就任した 有吉 忠一の戦後では考えられない業績について紹介します。
時々誤用として使われるのが、市町村長や知事を「組長(くみちょう)」と言うことです。選挙を「くみちょうせんきょ」なんて言う人もいますが、正しくは「首長(くびちょう)」の聞き間違いから派生したものです。さらに、
「首長」、本来は「しゅちょう」と読みますが、同じ分野に同音異義語があるため誤用をさけるため「首長(くびちょう)」と表現しています。
ただ、威張り腐って気に喰わないボス(首長)を揶揄して「くみちょう」とあえて誤用している場合も散見しますが、どうどうと「殿(との)」と言っている自治体幹部もいらっしゃるようで、面白いですね。
有吉 忠一市長
最初から横道に逸れましたが、有吉 忠一(ありよし ちゅういち)京都府の宮津出身で、内務官僚として活躍、山縣有朋の秘蔵っ子でした。
内務省は現在の総務省的な役割も含む巨大な組織でした。
有吉は、弱冠35歳で第11代千葉県知事を二年、1910年には朝鮮総督府総務部長官(後に再度朝鮮総督府政務総監として就任)翌年の1911年には第13代宮崎県知事に就任します。
この時38歳の若さです。
宮崎県知事時代の業績は「鉄道と港湾一体開発」事業を成功させた人物として評価されています。
http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/chiiki/seikatu/miyazaki101/hito/036/036.html
その後、1915年(大正4年)に神奈川県知事に就任しますが、この時に洪水多発地帯であった多摩川の改修を指示し川崎市中原区に「有吉堤」の名が残る土木遺産が現在もごく一部残っています。(中原区中丸子児童公園内)
河川事業としては全く動かない国に対し、道路整備の名目で土手を高くして堤防とする荒技で申請し許可を得ます。工期途中で国の停止命令がでますが、無視。懲戒処分も受けますが工事を完成させます。



日本基督教団教会員でもあった有吉は関東学院の開設にも助力します。

3月11日 内村鑑三と関東学院
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/03/311.html

約四年神奈川県知事を務めた有吉 忠一は、
1919年に第15代兵庫県知事に就任。
当時画期的だった労使協調組織の地方版「兵庫県工業懇談会」創設を主導します。ここで三年。
1922年(大正11年)6月に軍事権を除く行政・立法・司法の実務を統括した「朝鮮総督府政務総監」に就任します。

이형식(李炯植)
「中間内閣時代(1922.6-1924.7)の朝鮮総督府」より

  水野錬太郎の推薦で兵庫県知事から一躍政務総監に就任した有吉忠一の朝鮮赴任によって、朝鮮総督府は新しい局面を迎えるようになった。原―水野の積極―同化政策を可能にした第一次世界大戦による好景気は、1920年からのいわゆる「戦後恐慌」で終わりをつげ、好景気が支えた積極政策は修正を余儀なくされた。地方官出身の有吉の政務総監就任に対して朝鮮での世論は好意的ではなく、内閣や議会との交渉では推薦者である水野の協力に依存するしかなかったため、総督府内での有吉の立場は確固たるものではなかった。

有吉は 在任中、朝鮮総督府の日本人高級官僚、特に「生え抜き官僚」との軋轢、関東大震災時の“朝鮮人虐殺”に反発する暴動等の真ただ中でかなり苦労します。
1924年(大正13年)7月4日にその任を解かれ東京に戻ります。
1925年(大正14年)の今日5月7日、第10代横浜市長となりました。
(あえて 横浜市長時の業績に関しては 略します)
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/097/02.html
業績のキーワードは
迅速な震災復興(公債募集による復興資金調達)
商業都市から工業都市へ(臨海工業地帯の形成)
横浜港の拡張(横浜港の外防波堤建設)
Ariyoshi Plan
市域の拡張(約64万坪の市営埋立、周辺の9つの町村合併)
区制による中区・鶴見区・神奈川区・保土ケ谷区・磯子区の誕生
開港記念日を6月2日とする
さらに、
ホテルニューグランド創設の主導 等が挙げられます。

1930年(昭和6年)2月10日、議会で名台詞を残して辞任します。
「予算案さえつくれば、その決定は予算を実行する後任市長と市会の自由裁量によるべき…」昭和6年度の予算が成立する前に辞職します。
その後、日本商工会議所副会頭、勅撰貴族院議員となり
1933年(昭和9年)に横浜商工会議所会頭として再び横浜と関わるようになります。
1947年2月10日に亡くなるまで、貴族院議員として静かな生活を送りますが、有吉にとって佐佐木信綱を師匠とする“和歌の世界”が愉しみの一つでした。

一すじにまことの道をたがへじと
  ねがふ我手をたすけてよ我友

 (昭和2年(1927年)12月1日
ホテル・ニューグランド開業の日)に
今日よりは外国人もこゝろ安く
  旅寝かさねんこゝのみなとに

 (昭和5年(1930年)5月
時事新報社主催の遣米答礼使の令嬢たちへ贈る)
ポトマック川辺のさくらふるさとの
  やまと少女をまちつゝゑむらん


(余談)
有吉を起用した山縣有朋は、これまでの評価とは違う新しい史実が公表されてきました。
地方自治制度の立役者、
1887年(明治20年)に山縣は「自治元来是國基」と詠み、翌年町村制が国家百年の長計を立てるものだと訓示を行っています。

「山縣有朋の挫折」松元 崇 著 日本経済新聞社 P94
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現在は下記に移動しました。


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