2012年4月30日月曜日

No.121 4月30日  日本にCivil engineeringを伝えた英国人

桜木町または日ノ出町からほど近い丘の上に整備された野毛山公園があります。
起伏に富んだ幾つかの庭園と、動物園があり、市民の憩いの場所となっているこの公園の一角にヘンリー・スペンサー・パーマーの記念ブロンズ胸像があります。
1987年(昭和62年)の今日、横浜水道創業100年を記念して建てられました。

(Henry Spencer Palmer)
1838年4月30日にHenry Spencer Palmerはイギリス領インド帝国のバンガロールに生まれました。

教育を英国バースで受け、王立陸軍士官学校で土木工学(Civil engineering)を学び卒業と同時に工兵中尉を任じられます。
カナダ、ニュージーランド、バルバドス、香港と世界各地の英国領に赴任し、地形測量、道路工事、水道設備設計といったCivil engineerとしての才能を発揮します。

※Civil engineeringは狭義では土木工学ですが社会基盤学とも訳されます。

明治11年頃、香港で水道設計を成功させたパーマーは、何回か立ち寄ったことのある日本にたまたま来日していた時、英国公使パークスの紹介で水道調査の仕事に就きます。限られた時間の中、3ヵ月で実地測量から計画までを脅威の行動力で完成させ、多摩川取水計画と相模川取水計画の2案を提出し日本を離れます。
多摩川取水計画に関しては、後の東京との水源競合を与件事項として明記されることで、横浜の水源が相模川水系、道志村になる基礎データとなります。
いざ工事を始めるにあたり、日本には技術者が殆どいないという現状がありました。そこで、Henry Spencer Palmerを再招聘します。1885年(明治18年)4月から日本初の近代水道の工事が始まります。水源を相模川支流の道志川に求め、野毛山配水池(野毛山公園)に至る総延長48kmの2年にわたる難工事でした。
1887年(明治20年)10月17日に横浜水道は通水します。
パーマーはその後、東京の水道事業を手始めに大阪水道、神戸水道、函館水道ほか全国の水プロジェクトに参画し、多くの業績を残します。
1890年(明治23年)日本人の女性・斉藤うたと再婚し、娘が生まれますが、三年後の1893年脳卒中で東京麻布の自宅にて54歳で亡くなります。東京青山霊園に埋葬されています。
パーマーはいわゆる「お雇い外国人」ではないと私は考えます。そこには、世界を歩き社会インフラの基本中の基本を設計するCivil engineerとしての誇りがあったのでしょう。
タイムズの通信員としても日本の情報を発信し、 豊富なイラスト入りの『Letters from the Land of the Rising Sun(日出ずる国からの手紙)』を執筆していました。彼の死の翌年出版され、母国英国でも多くの読者がこの本を手がかりに日本を知ります。

Henry Spencer Palmer Museumという個人で編集された秀逸なライブラリがあります。お孫さんにあたる樋口次郎氏の作業によるももです。
http://homepage3.nifty.com/yhiguchi/
「祖父パーマー 横浜・ 近代水道の創設者」有隣新書 (平成10年10月15日発行)

2012年4月29日日曜日

No.120 4月29日 庭球が似合う街

開港時から多くの外国人が暮らした横浜山手地区。
この地から始まった外国文化との出会いが多くあります。
テニスも代表的な横浜から始まった欧米文化の一つです。
1998年(平成10年)の今日、当時の様子を伝える「横浜山手・テニス発祥記念館」が山手公園内(横浜市中区山手町230)にオープンしました。

日本最初の洋式公共公園「山手公園」には12面のテニスコートが点在し(内 市営コート6面)、最初のローンテニスが行われた場所に相応しい雰囲気を持っています。

ここには、「日本庭球発祥之地」と記された記念碑が建っています。
1878年(明11年)横浜の居留地に暮らす外国人が、自分たちのためにクラブとコートをつくった史実にちなんだものです。
倶楽部創設から100年後の1978年(昭53年)に元デビスカップ(デ杯)選手の安部民雄氏の書により建てられ除幕されました。

「1876年(明治9)、ここ山手公園でわが国最初のローンテニスが行われ、1878年にわが国最初のテニスクラブが誕生しました。日本初の洋式公園である山手公園と、わが国でのテニス発祥120周年を記念してこの記念館を設立しました。」


テニス発祥記念館には、かつて外国人がテニスに興じたテニス用品、年譜などが展示されています。この公園と、テニスコートを散策しながら「テニス発祥記念館」を訪れるのも、開港の風を感じるうってつけの空間といえるでしょう。
1870年(明治3年)6月4日に開園した山手公園内には、歴史的洋館の山手68番館が市営テニスコートのクラブハウスとして使われています。

(余談)
ここにそそり立つヒマラヤスギも山手公園に初めて植えられ、全国に広まったマザーツリーです。


2012年4月28日土曜日

No.119 4月28日 開国を祝う

1859年、開港によって開国が現実のものとなりました。
その中心となった港が江戸に近い横浜港です。
この開港を記念して節目には「開港祭」が開催されてきました。
横浜を語る枕詞、開港より(  )年の横浜は……
50周年、100周年、130周年、そして2009年(平成21年)の今日4月28日(火)
開港150周年祭「開国博Y150」が開幕。
153日間開催されました。

「開国博Y150」の開催概要は下記サイトをごらんください。
http://www.yokohama150.org/y150/
http://ja.wikipedia.org/wiki/開国博Y150

「開国博Y150」開幕 私の場合
実現不可能と思っていた「ヨコハマ・グッズ 横濱001」の「開国博Y150」ブース立上げを4月中旬から突貫で始めていました。
なにせ一人所帯の事務所に12人のスタッフ集めから始まり、忙殺されていました。
153日間無休、10時20時で400アイテムの販売管理をどうするかで頭が一杯だった二週間、無事整いオープンできた安堵感に満ち満ちた4月28日でした。

「開国博Y150」の評価は賛否いろいろあります。
全体結果が失敗ではないかという流れに傾く中、批判が高まりました。
契約金の減額、赤字補填、誰が悪いという犯人探しまで、傍観者の私にも聞こえて来るノイズで一杯でした。
今日のコラムはその評価をするには適切な場ではありません。
ただ一言だけいえば、準備不足 少なくとも2004年くらいから本腰を入れる必要があったのだと私は感じました。
神奈川県、横浜市、商工会議所 他諸々。「三すくみ」だったように見えました。

(時勢の悪さ)
100周年のときは、終戦の疲弊した背景で開催。


No.96 4月5日 開港ではありません開国百年祭
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/04/45.html


130周年のときは、昭和天皇の崩御。

No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/03/324.html

No.431 「みなとみらい」地鎮祭開催 
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/03/no431.html

そして 150周年のときは
アメリカの大手証券会社リーマン・ブラザーズが経営破綻。
そして パンデミックの恐怖、新型インフルエンザ感染症
なんてのもありましたが
ゴールデンウィーク(4/28〜5/6)の来場者数は約49万人
(周辺観光客をいれたらならもっとでしょう)







確かな手応えは
あらためて、来訪者の増加で横浜認知力がアップしたことでしょう。
街中活動の活発化、私はボランティアという言葉の乱発が嫌いなのであまり多用したくありませんが、真のボランティアによる地域力を実感できたことは間違いありません。
(しっかり この祭りに学ばなければなりません。得たものと失ったものを)

2012年4月27日金曜日

No.118 4月27日 蟹とたはむる

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
1886年(明治19年)に生まれ26歳で亡くなった石川啄木の代表作品「一握の砂」の冒頭歌です。
啄木ファンには申し訳ありませんが、私生活のひどさは日本文学史上ベストスリーに入るのではないでしょうか。
それでも彼を支援する人たちのおかげで、彼は生き彷徨うことができたのです。
1908年(明治41年)4月27日の午後6時頃、石川啄木22歳を乗せた三河丸が横浜港に着岸します。彼のつかの間の横浜滞在エピソードから今日の話しを進めることにします。
石川啄木
冒頭の石川啄木「一握の砂」には

函館なる郁雨宮崎大四郎君
同国の友文学士花明金田一京助君
この集を両君に捧ぐ。予はすでに予のすべてを両君の前に示しつくしたるものの如し。従つて両君はここに歌はれたる歌の一一につきて最も多く知るの人なるを信ずればなり。

とあります。

宮崎 大四郎(1885年〜1962年)は、北海道時代から亡くなるまで変わらぬ敬愛の情と、援助を惜しまなかった人物です。啄木より一歳年下で啄木の夫人節子の妹堀合ふきと結婚し終生家族付き合いがあったそうです。

すごいのが金田一京助(言語学者)1882年〜1971年)で、盛岡中学時代の後輩だった啄木に対し、家財道具を売って金を作り、家賃を肩代わりしたりしました。
その間、啄木は人の金と借金で放蕩三昧していることを知っていても見守ります。
金田一がいなければ間違いなくもっと早く啄木のたれ死にだったに違いありません。
それでも、憎めない人間性が啄木にはあったのでしょう。

啄木にとって北海道、特に函館は特別な場所だったようです。
「僕は矢張死ぬ時は函館で死にたいやうに思ふ」
 と書簡に残しています。
岩手、渋民尋常高等小学校の教職を離れ、北海道に渡ります。函館の文芸結社苜蓿社、函館商工会議所の臨時雇い、「函館日日新聞」遊軍記者、札幌で『北門新報』、『小樽日報』の記者になりますが内紛で退社、釧路新聞社(現在の釧路新聞社とは無関係)でも上司と上手くいきません。
石川啄木22歳、単身上京を決心します。

(函館から船に乗って横浜に着いた)
1908年(明治41年)4月25日午前4時半「横浜行き郵船三河丸」啄木を乗せ東京へ向け出港します。
船中、啄木は(面識の無い)横浜正金銀行預金課長「小島久太(烏水)」を「新詩社同人名簿」から発見、横浜に着いたら面会したい と手紙を送ります。
(恐らく寄港地「宮城県萩の浜」から出された)
※当時、寄港地から出す手紙の方が船より速かったようです。
4月27日午後6時横浜港に着き弁天通5丁目の長野屋(現:横浜平和プラザホテルあたり。現在と関係があるかどうかは不明)に泊まります。
約三日間の船旅でした。
4月28日啄木は床屋に行き、身だしなみを整えます。
1873年12月生まれの「小島烏水」(本名 小島久太)はこのとき34歳、1886年2月生まれの石川啄木は22歳、一回り違う年の差でした。
「港内の船々の汽笛が、皆一様にボーッと鳴り出した時、予は正金銀行の受付に名刺を渡して居た。
応接室に待つ事三分にして小島君が来た。
相携へて程近い洋食店の奥座敷に上る。」


県立歴史博物館(旧横濱正金銀行)
2月28日 アジア有数の外為銀行開業

4月27日付けの船中便で、親友宮崎大四郎宛に「明日烏水君と会食の約あり」と勝手に書いています。5月2日東京から同じく
「一洋食店に小島君と会食して快談いたし候、誠によい紳士にて、今後若し小生が職でも求める際は出来る限りの助力をすると申居り候」
と送っています。

食後、午後2時の電車で横浜駅(現、桜木町駅)から東京に向かい3時に新橋に着きます。

タメ口の石川啄木、
小島 烏水にとって、突然の来訪者でした。啄木を暖かく迎えたようです。


さて、石川啄木と小島烏水は当時 どこで昼食を食べたのでしょうね。
明治41年ごろですから、いろいろあったでしょうね。
No.400 横浜洋食巡り
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/02/no400.html

西区戸部に育った、小島 烏水のエピソードもいろいろありそうです。
山崎紫紅(22)が書いた郷土史「戸部史談」の序文を担当したり、木暮理太郎、田山花袋、バジル・ホール・チェンバレン(王堂チェンバレン)、ウォルター・ウェストン、滝沢秋暁、伊良子清白 他広い交友関係がありました。
浮世絵や西洋版画の収集家・研究家としても知られ収集した浮世絵や西洋版画のうち900点余りが、横浜美術館に「小島烏水コレクション」として収蔵されています。
http://www.yaf.or.jp/yma/exhibition/2006/special/04_kojima/index.html
横浜美術館
http://www.yaf.or.jp/yma

2012年4月26日木曜日

No.117 4月26日 今日はマニアック系で失礼します。

2005年(平成17年)10月、京浜急行はかつて獲得していた久里浜線の油壺への延伸免許を廃止することを決定しました。
これで、京急の南延計画は無くなり、路線延長は1975年(昭和50年)4月26日の三崎口駅開設をもって完了します。(羽田空港線を除く)
今日は、泉岳寺と三崎口間が開通した1975年(昭和50年)4月26日に因み
京急ファンの一ページを紹介します。
京急終着駅 三崎口
京浜急行の本線は泉岳寺から浦賀ですが、
メインの快速特急は泉岳寺から堀之内経由、
久里浜線「三崎口」を繋ぐ路線が経営上の(本線)となっています。

京急「京浜急行電鉄」は、
東京都の品川から神奈川県三浦市まで1都、4市を縦断し横浜市内を通過する区間が最も長く駅数も多い路線です。
本線50駅中、23駅が横浜市内に開設されています。
現行京急路線図
全路線(Wikiより)
京急マニアには常識ですが
京急は元々、二つの会社、ライバル会社が合併して生まれた鉄道会社です。
1941年(昭和16年)11月1日に京浜電気鉄道(泉岳寺ー横浜)と湘南電気鉄道(日ノ出町ー浦賀)が合併し、現在の路線網の骨格がほぼ完成しました。

2013横浜わが街シリーズ: No.367 1月1日(火)この駅「日ノ出町駅」
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/01/no111.html

No.88 3月28日 京浜湘南電鉄連結地点
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/03/328.html


本線は泉岳寺駅ー浦賀駅間56.7kmで、この内(概算)横浜市内30kmを走っています。
京急は古くから熱狂的なファンに支持されてきました。

■京急の
 音鉄!
 録り鉄!
 の濃密度はかなりです。
(※発車メロディや接近メロディ、車内チャイムなど「鉄道の音」を聞くことが喜びの音鉄!聞くだけでなく、鉄道が発する音を収録する「録り鉄」という分野があります)
→京急ドレミファインバータ、これがたまらないドレミファ駆動音
http://www.youtube.com/watch?v=JE69chAlZLE
http://www.youtube.com/watch?v=tyjsiSgtZys
http://www.youtube.com/watch?v=8yhOhcR9PHU
→京急 駅メロディ集(上り)
http://www.youtube.com/watch?v=19FovOCASMU
→京急 駅メロディ集(下り)
http://www.youtube.com/watch?v=JWPJY6itVcU
→金沢文庫駅から京浜川崎(「録り鉄」の鏡!収録位置がすばらしい)
http://www.youtube.com/watch?v=Kmzg7F58Tsk

■ライバル意識ムンムン!!
京急の横浜駅から川崎駅間、
 JRとのライバル意識?ムンムンです。
在来線の走行最高速度120km/hですが、110km/h程度が一般的、ところが宿命のライバルJRと京急が並走する横浜駅から川崎駅間では、明らかに京急が120km/hキープでJRを凌ぎました。(あくまで経験上ですが)

■終着駅「三崎口駅」は寂しい。
久里浜線の終着駅「三崎口駅」は、周辺人口に比較したら日本一寂しい駅ではないでしょうか。(夏の観光シーズンはかなり混み合いますが)
三崎口駅 入線メロディー
http://www.youtube.com/watch?v=XuypiGGe0Tk
各駅停車「特急」があります。
三崎口から京浜久里浜までの区間だけ走る「特急」がありますが、区間内全駅に停まります。
三崎口駅行先掲示版、久里浜行きが多い

■浦賀散策
浦賀に行ってきました。開港の舞台であり咸臨丸にも関係がある街です。
浦賀観光マップ
顕正寺、江戸時代中期の陽明学者である中根東里の墓


ワカメの産地でもあります
この航路は「横須賀市道2073号」で「浦賀海道」と名付けられています。
1日あたり80〜250人の利用があるそうです。


(浦賀の渡し船)




説明東叶神社拝殿の左側から始まる200段を越える石段を登る
 眼下左あたりに ペリー艦隊が係留したところだそうです
(愛宕山公園)

http://yokosuka-kanko.com/kanko-annnai/map/map_uraga.html

2012年4月25日水曜日

No.116 4月25日 紺地煙突に二引のファンネルマーク

空港は空の港と書きますが、海の港は現在も島国日本の動脈です。
日本の生命線 海運の母港は「横浜」だと表現しても決して大げさではありません。
北太平洋航路の貴婦人と呼ばれた「氷川丸」にとって、4月25日は記念すべき日です。
氷川丸のバースデイとリボーンデイが今日です。
氷川丸が横浜船渠株式会社で竣工したのが1930年(昭和5年)の今日です。
リニューアルされて公開を再開した日も
2008年(平成21年)の今日です。
山下公園に係留されている「氷川丸」が、今この横浜に「在る」意味を紹介します。
氷川丸は、日本の商船史が凝縮された船です。単なる港の観光船ではありません。
氷川丸は、
多くの栄光と苦難を経験してきた日本商船の代表といえるでしょう。
歴史上、氷川丸より大きく豪華な客船は多くあります。
氷川丸より過酷な運命を辿った商船も多くあります。
事実、同期船6隻で生き残ったのは氷川丸だけです。
日本商船の母港、横浜で生まれ、横浜に戻り「ここに在る」ということこそが奇跡であり重要だということを 今改めて確認をしておく必要があります。
氷川丸の詳細データは サイトに公開されていますのでぜひチェックしてください。
http://www.nyk.com/rekishi/knowledge/history_luxury/01/index.htm

(その歴史を簡単に)
20世紀初頭、世界の海運競争が激化します。
アメリカと日本を結ぶ太平洋航路は欧米商船会社に席巻されます。
震災復興に一応のメドがついた昭和初期、太平洋航路に6隻の新型商船を導入します。その第一号が氷川丸で、戦後まで生き残ったのも氷川丸でした。氷川丸建造のコンセプトは「外観より丈夫に」でした。この丈夫さが後に活きてきます。

(黎明期)
明治期からアメリカの太平洋航路の母港サンフランシスコは、Pacific Mail SteamShip Co.太平洋郵船の独壇場でした。

1月24日 西へ新たなフロンティアへ

そこに浅間丸、龍田丸、秩父丸(のちの鎌倉丸)が投入されます。

2月7日 鎌倉丸をめぐる4つの物語
2月8日 龍田丸をめぐる2つの物語

新たに、太平洋岸北西部地域の最大都市シアトルに主力貨客船3隻が投入されます。
シアトルはかつて「グレート・ノーザン鉄道を父とし、日本郵船を母とする。」と呼ばれたように、日本が集中投資を行った都市です。
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Seattle
シアトル航路に、日枝丸、平安丸、そして氷川丸が就航します。

(黄金期から戦時下へ)
1930年代、氷川丸は華々しい活躍を見せます。
「紺地煙突に二引のファンネルマーク輝けり」
■徴用時代 昭和16年から昭和25年まで
その後、戦時下に入り
引揚船、交換船、病院船として沈没の危機を乗り越えます。
機雷に三度接触、全て自力で脱出、帰港します。
(このことから「幸運船」と呼ばれたこともあります)
戦後、占領下で復員船、国内の貨客船として運行します。
■戦後初の海外航路に
同僚船はほぼ壊滅している中、唯一の日本の大型船として外国航路(ミャンマーのヤンゴンまで)を走ります。(残念なことにその時は日章旗ではなく、国連旗を掲げていました)
この航海のときに、メインエンジンが故障します。竣工以来15年、一般的には老朽化、引退もおかしくない状態だったそうです。
分解、整備を行い氷川丸は一気に若返ります。
(復活のひととき)
昭和28年、「リフレッシュされた老朽船」は、かつての北太平洋航路に復帰します。
昭和35年8月27日に横浜を出港した第60次航海を最後に引退します。

太平洋を 238回 延べ25,000人以上の乗客がこの船旅を経験しました。
引退した「氷川丸」は、当初「老醜を晒したくない」ということで解体される予定でしたが、市民の要望に応え、神奈川県と横浜市が誘致を決定し、この地山下公園に係船されることになります。
観光船として多くの観光客が訪れますが、さらなる老朽化と横浜の観光スポットの変化で赤字が続き運営を断念します。
2008年リニューアルし、現在に至ります。
現役30年
OBとして50年
今日現在82歳の姿は美しいと思います。
http://www.nyk.com/rekishi/exhibitions/hikawa.htm

氷川丸がアメリカ船籍の客船に勝っていた!と言われたのが料理だそうです。チャップリンも料理で氷川丸を選んだとか。
簡単でしかも人気があったのが「ドライカリー」だったそうで、このドライカリーのサンドイッチは絶品!ということで現在郵船から復刻されています。

2012年4月24日火曜日

No.115 4月24日 忘れ得ぬ事故の記憶

誰が悪いのか?ではなく何が悪いのか?
俯瞰することを忘れまい。
事態を限定的にすることで解決した気分になるまい。
人災は当事者の責任以上に多くの責任を含んでいる。
1951年(昭和26年)4月24日13時45分頃、国鉄戦後五大事故の一つが横浜で起りました。
大惨事「桜木町事故」です。

まずは、映像をご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=DHZr6HTAWaY
http://www.youtube.com/watch?v=NfziGZsaW-s&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=ClWXxoJczd4&feature=relmfu
http://www.youtube.com/watch?v=8y0SqHR9lKk&feature=endscreen&NR=1
(事故概要)
この日、国鉄根岸線桜木町駅構内の上り線で碍子(がいし)交換工事が行われていました。
電気工事作業員が作業中誤ってスパナを落としたとき、上り線の架線が垂れ下がってしまいます。
その時、横浜駅を10分遅れで出発し桜木町に9分遅れて到着の予定の赤羽始発の電車が時速35kmで進入してきました。
運転手は、信号機付近で上り線の架空線がたるんでいたことと、工事関係の電力係員が数名いることを確認しますが、下り線の架線に異常を認めなかったためそのまま駅に進入します。
一方、工事現場では上り線のみ列車を進入させないよう手配し、下り線は通常通り運行できると判断します。
ところが、垂れ下がっていた上り線の架線に先頭車のパンタグラフが絡まり、運転士は急いでパンタグラフを下ろそうとしますが、先頭車両のパンタグラフは破損し電線と車体が接触した状態のままになります。
ショートが起り激しい火花(アーク)が発生、車両の屋根に着火し木製の天井から炎上を始めます。結果、先頭車両が全焼し、2両目が半焼、車両内の乗客の殆どが逃げられない状態で焼死者106人、重軽傷者92人を出す大惨事となります。

(結果)
工事に関わった者と、運転手計5名が起訴され最高裁まで争われます。そして事故から9年後の昭和35年に最高裁で信号係、電気工手長、電気工手副長、電気工手、運転手らに有罪が確定します。(禁固6ヶ月〜1年10ヶ月)
国鉄戦後五大事故となった「桜木町事故」の発端は、工事関係者の停止指示ミスと前方不注意でしたが、そこには様々な要因が重なっていたことが明らかになります。

戦後急激な復興速度に対し車両が間に合わず、戦時中に設計された63形車両タイプを限られた資材で製造、燃えやすい木造製に引火しやすい塗料を使用したこと。
 (主に昭和21年ごろ製造)
窓ガラスの(ガラス)が不足し、再利用しやすく窓の構造を3段構造にし開口部の高さを29cmと小さくし中段を固定したことで窓から非難できなかったこと。

自動扉が作動せず、乗務員や駅員が非常用ドアコックの位置を知らなかったため扉を外部から手動で開けることもできなかったこと。
変電所の高速度遮断器が作動せず約5分に渡って架線に電気が流れたままになったこと。
(事故時の隣接変電所の遮断は電話連絡に頼っていた)
電気配線の絶縁の質が劣悪な設計であったこと。
(事故以前にも車両発火トラブルが起っていた)
車両端にある貫通扉が内側に開く構造であったこと。
(乗客がここを通ることは想定されていなかった)
等々(現在では)考えられない(想定外?)要因で大惨事となります。

(波及)
この事故は、もう一つ大きな波紋をもたらします。
事故車両となったモハ63形電車は、戦中に設計され戦後800両近く製造された中、全国の私鉄発注車として約100両近く製造されていたからです。
国鉄を含め、鉄道関係者はその対策に追われます。
対象車の安全対策工事はわずか2年強で完了したそうです。
この事故の社会的影響も大きいモノがありました。
マスコミの国鉄批判、プロ野球球団「国鉄スワローズ」への逆風、国会の紛糾があり第2代国鉄総裁加賀山之雄の引責辞任という結果で終息を計ります。
この時期、国鉄として新しい車両開発も行っていました。
伝説的名車両「80系電車」の開発者でもあった島秀雄車両局長はこの事件の責任を取り国鉄を去ります。

(背景には)
この事故原因を詳細に追い、一歩さがって事故を俯瞰した時に、この事故は防げなかったのだろうか?と強く感じます。
戦災という大惨事の後の復興方針にずれは無かったのか?
何を急ぐべきだったのか?
何を守るべきだったのか。
この事故から学ぶことはまだまだ多くあります。

(さらに)
「桜木町事故」から12年後の1963年(昭和38年)11月9日夜に、国鉄戦後五大事故の二つ目「鶴見事故」(死者161名、重軽傷者120名)が横浜で起きます。
貨物車輛の競合脱線に旅客車両が衝突して惨事につながりました。
この時にも“人災”が重なります。

(そしてみらいへ)
今や世界で最も安全な超高速鉄道「新幹線」は導入後現在まで無事故(一部故障を除く)を誇っています。
この安全な新幹線設計の陣頭指揮に立った人物が「桜木町事故」で責任をとった島秀雄技師長です。蒸気機関車D51形の設計、そして国鉄退社後は宇宙開発事業団(NASDA)(現在のJAXA)初代理事長も務めました。

鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、この二つの事故の慰霊碑があります。
桜木町事故の慰霊塔
総持寺風景
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2012年4月23日月曜日

【番外編】コンパクトソーラー

2月にコンパクトソーラーを購入し使っています。
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