2012年2月3日金曜日

No.34 ‎2月3日 ポサドニック号事件で咸臨丸発進

日本人が初めて幕末太平洋を横断した「咸臨丸」に関わった異才3人の人物に大変関心があります。
太平洋横断の時に乗船した勝海舟と福沢諭吉、
そして幕府の緊急事態に「咸臨丸」で対馬に派遣された外国奉行になりたての
小栗忠順です。
終生 勝海舟のライバルで、
明暗を分けた人生を歩んだ小栗忠順のエピソードを紹介します。
咸臨丸が太平洋往復という大役を終え、神奈川港(横浜)近辺の警備についていた頃、日本周辺は緊張感に包まれていました。
欧米列強がアジア市場を巡って狙いの焦点を日本に合わせてきたのです。
万延2年(1861年3月13日)のこの日、ロシアの軍艦ポサドニック号が対馬の尾崎浦に投錨し一方的に上陸し領土租借を求める事件が起きました。
ポサドニック号事件またはロシア軍艦対馬占領事件と呼ばれます。



ポサドニック号事件は、アジア進出に遅れをとったロシアの焦りから起った事件でした。ロシア(ソ連時代も含め)にとって不凍港の確保は二世紀にわたる願望です。幕末期、ペリーに限らずロシアも何度か日本を訪れ開港を求めますが上手く運びません。
なまぬるい政府に業を煮やした軍部が政府の意に反し南下作戦をとります。そこには宿命の敵対国イギリスの影がありました。当時英露関係は1853年に起ったクリミア戦争以来、かなり緊迫していました。(この緊張感が日露戦争につながるのですが)
実は、ポサドニック号が対馬に上陸する二年前にイギリスの軍艦が対馬に上陸し対馬藩に無理矢理要求を突きつけ承諾させます。この事件がロシアに伝わり軍部がナーバスに反応したことも背景にありました。
対馬にロシアの拠点(租界)を作るために軍艦ポサドニック号を差し向けます。初動のロシア砲艦外交は上手く行きます。簡単に上陸でき、対馬藩を恫喝します。しかしこの砲艦外交はその後の日露関係に痛恨のダメージとなります。

九州広域の管轄部門、長崎奉行が乗り出しますが決裂します。
そこでようやく幕府は重い腰を上げます。外国奉行になったばかりの小栗忠順を江戸から派遣することにします。その時に彼を搬送したのが神奈川沖で警備にあたっていた咸臨丸です。彼はその場しのぎでは解決できない国際状況を認識していた日本人の一人ですがロシアとの交渉は上手く行きませんでした。この外交方針で外国奉行から更迭されてしまいます。小栗はこの失敗を糧に復活します。
その後軍艦奉行になりフランスと交渉し横須賀製鉄所を完成させました。4回にわたって罷免されても勘定奉行になった人物は彼だけです。幕末幕府を支援したフランスの協力を引き出したのは小栗の外交能力の優秀さです。しかし優秀が故に幕府(特に勝海舟)に疎まれ、最後は維新直前に官軍の命で斬首された幕末希有の人材といえるでしょう。
彼の生涯の実に面白いので興味のある方はネットか
「覚悟の人 小栗上野介忠順伝 (角川文庫)700円」 あたりを読まれると良いでしょう。
 小栗上野介忠順→ただ今調中(2013年4月)
近年ロシアの資料がかなり公開され、この対馬事件の新しい事実が見えてきました。英国公使オールコックと露公使ゴシケービッチの高度な情報戦が行われていたようです。ロシアは英国が対馬を軸に日本占領を狙っているとささやき、英国は江戸で起った(一説では起こした)東禅寺事件(東禅寺警備の松本藩士伊藤軍兵衛がイギリス兵2人を斬殺)を口実にイギリス有利の要求を幕府に要求し対馬事件は英国に有利な結果に落ち着きます。

※ちなみに
日本人が初めて幕末太平洋を横断した「咸臨丸」に関わった異才3人
勝海舟は「豊臣秀吉」
福沢諭吉は「徳川家康」
小栗忠順は「織田信長」のようなタイプに置き換えることができるかもしれません。

今日番外編で咸臨丸
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/02/blog-post.html


No.438 神奈川奉行入門
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/04/no438.html
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下記にて移行継続中です。


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