2012年2月29日水曜日

番外編 目利き見立て見切り

「今日の暦」は凡そ一週間単位で資料調べをしながらテーマを決めていきます。特に既知のテーマ以外はなるべく決まった時間内に調べると決めたルールです。
ある一定時間でどこまで調べるか、どこまでまとめるかをトレーニングするために立てた一年の目標がこの「暦で綴る今日の横浜」です。
テーマ探しにはかなり濃淡があり手元資料ではほとんどネタにできない難しい日もあれば、幾つもの面白ネタが集中する日もあります。この「暦」を始めて分かったことは書きたい!面白い!というネタの方が難しいことが多いので困ります。書きたいという欲、もっと知りたいという欲が絡み合い、もっと良く書けるのではという不安が心を過ります。ほんの少し物書きの深さを体験中です。
スペックシンドローム。調べるテーマをどんどん穿ってしまうことで全体が見えなくなってしまうことが往々にしてあります。わかりやすく、簡潔に書くってこと難しいことです。だからトレーニングなんですが。
いまのところ文字量まで決めていません。ちょっと自信が無いですから。書きこなして行くうちに光も見えてくることでしょう。

昔、「ファブレス企業」の勇、株式会社ハウス オブ ローゼの川原暢氏をインタビューした時に、
ビジネスは目利き見立て見切りという話しを伺いました。「物書きも同じでしょう!」と言われましたが 確かに
探し出す「目利き」ネタ探しの嗅覚が必要です。
ネタからテーマをイメージする「見立て」
そして最も大切なのが「見切り」だそうで、欲張らない構成が大切ですね。
60話目をもって 目利き見立て見切りの大切さを実感しています。 

No.60 2月29日 消え行く街の個性

本日閏年60話、2ヶ月終了しました。外は雪です。閏年でなければ3月の大雪です。
商店街が衰退しつつあります。時代の流れかも知れませんが、一階建ての百貨店が風前の灯です。1980年(昭和55年)の今日、神奈川区にある六角橋商店街から出火、24棟26店舗が焼失しました。
グーグル航空写真 商店街上空
戦後の焼け跡から復活し、昭和の香りを色濃くもっている商店街がヨコハマからも消えつつあります。そのきっかけになっているのが残念なことに火災です。それも放火(不審火)が多いのが現状です。
六角橋商店街は1980年(昭和55年)に大きく商店を失いましたが不完全ながら復活しました。



ところが、 2011年8月に六角橋交差点寄りの店舗が火元とみられる火災が発生し17棟が焼失してしまいました。これによる商店街の復興は絶望といわれています。
磯子区浜マーケットも戦後のアーケードを色濃く残した商店街ですが、ここも火事で大きなダメージを受けました。
神奈川大学から六角橋方向?だと思う

六角橋は神大の街でもあります

時々 フラッグも
古くさいもの何故残すのかという声も大きいそうです。不気味な圧力もかかるそうです。店主の高齢化も進んでいます。消防法上好ましくない建築物であることは間違いありません。単なるノスタルジーではありません。
残して欲しい街の個性です。

銭湯も頑張っています。若者が空き店舗で頑張っています。でも厳しいですね。
※2005年の2月と3月に放火事件がありました。
昨年の焼失場所
六角橋商店街
(2012年5月10日 更新)
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2014年〜
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2012年2月28日火曜日

No.59 2月28日 アジア有数の外為銀行開業

2月18日の「過去に学ばないものは過ちを繰り返す」でも紹介しましたが、明治政府は外国に対し通貨主権を回復するために様々な手だてを試みます。1880年(明治13年)は1月に安田銀行(富士銀→みずほ銀)、2月のこの日横浜正金銀行(東京銀)、4月には三菱為替店(三菱銀)が相次いで開業します。
旧正金銀行本店、現県立歴史博物館 Wikiより
横浜正金銀行は、横浜区本町4町目58番地の本店にて営業を開始します。戦前HSBC(香港上海銀行)とともにアジア最大級の国際金融を担う日本経済を支えた外為銀行でした。戦後解体され外為部門が東京銀行になりその後三菱銀行と合併します。

明治政府は、維新後国家体制の確立のために様々な出費を強いられ財政的に逼迫します。さらに明治10年に起った内乱、西南戦争によって軍費調達のために紙幣を乱発し、これによってインフレーションが起ります。また輸入超過により銀貨が大量に流出します。
時の大蔵卿(大蔵大臣)大隈重信は、銀貨流出抑止と洋銀管理が必要と考えました。同じく慶応義塾の福沢諭吉は紙幣の乱発が貨幣と紙幣の格差を生み、財政危機に陥っているとして金融機関の設立を大隈に提案します。
同じ危機感を認識した二人は為替銀行設立に動きます。
慶応義塾社中中心に民間資金200円、政府が100円を出資し開業したのが横浜正金銀行です。
早矢仕 有的の片腕として丸善の発展に努め郷里名古屋に帰り事業を展開していた中村道太を福沢が呼び戻し初代頭取に推挙しました。副頭取には小泉信吉(ロンドン支店開設等を担い、政府主税官を経て塾長)が就任し、主な業務を対外貿易金融に特化した外為銀行が誕生しました。
その後、政変が起こり(明治14年の政変)中村道太には劇的なドラマが待ち受けています。このエピソードは別の機会にご紹介しましょう。

2012年2月27日月曜日

番外編 幕末明治の年号って苦労します。

明治5年11月9日(1872年12月9日)
突然、本当に唐突に
日本国内の暦が変わるという達しが出ます。
本年(明治5年)12月3日を明治6年1月1日とします。
この日以降日本はグレゴリオ暦、西暦を使いますってことに。
有余は一ヶ月しかありません。暦は生活に密接に関わっていましたから、混乱したでしょうね。
なんたって一ヶ月早く正月が来てしまう訳ですから。
何故急に布告したか?
政府の財政難を乗り越える苦肉の策で
一ヶ月分公務員の給与をカットする算段だったそうで、乱暴と云えば乱暴な話しです。
一方この暦改変をビジネスチャンスにしたのが
福沢諭吉で、慶應義塾出版局から『改暦弁』を出し10万部という当時でも大ベストセラーになったそうです。

幕末から明治にかけて暦は天保暦(旧暦)が使われていました。西暦と合致させるには結構面倒で、時々資料を読んでいると内容が西暦天保暦混在、混乱していることがありややっこしくなります。
西暦年と和暦年は一致しません。
例えば安政4年は1857年と58年にまたがっていますから単純に一致しません。
また時に閏月というのがあります。旧暦にもルールがあるんですが、閏月設定法が複雑なんです。
というわけで 手っ取り早いのが一覧表ってわけで、私は
1850年から1973年まで対応表を作り都度照らし合わせています。

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No.58 2月27日(月)政治家が辞めるとき

市長は政治家です。
役所で唯一選挙で選ばれた政治家です。
数人を除き、その他は全て公務員です。
市長には任期があり、選挙が待っています。だからこそ、首長(市長)の辞め際には様々なドラマが待ち受けています。
1978年(昭和53年)のこの日、第21代横浜市長飛鳥田一雄は市議会議長に辞任の意思を告げました。

飛鳥田一雄は、歴代市長の中で唯一(昭和38年から昭和53年まで)4期25年務めました。
プロフィールの詳細はWikiを参照してください。

飛鳥田は磯子の旧家で医師の家に生まれました。弁護士となり、横浜市市会議員、議会議員、衆議院議員を経て市長に当選します。
基本政策 横浜六大事業をかかげました。
1みなとみらい21をはじめとした都心部強化事業
2これと連動した金沢地区埋め立て事業
3港北ニュータウン事業
4幹線道路事業
5地下鉄事業
6ベイブリッジ事業
このビジョンは彼が横浜市を去った後も横浜市の基本計画として生き続けました。この政策実行には、飛鳥田がスカウトしてきた都市コンサルタントで後に技監となった田村明(退官後法政大学教授)の果たした役割が大きくありました。
飛鳥田一雄の行政評価は個々の判断に任せ、ここでは違った横顔を紹介しましょう。
市長の仕事の傍ら、彼は一人のフランス人実業家について資料を集め研究していました。その人物の名はアルフレッド・ジェラール、1837年にフランスのラーンスに生まれ1863年(文久3年)頃来日、横浜に来ました。横浜では多くの事業を興します。山手の湧き水に着目した船舶用の給水事業は世界に赤道を越えても腐らない「ヨコハマウォーター」の名が轟きました。さらに彼は煉瓦製造工場を建て「ジェラール瓦」を作ります。この瓦を使った建物は現在も幾つか残っています。多才な事業家で母国に戻った後も活躍します。
ジェラール屋敷
この人物に最初に関心を持ち研究を始めた人物こそ飛鳥田一雄市長でした。
当時誰も研究対象にした専門家はいませんでした。今でこそお宝ものですが、ジェラールの工場跡地はしばらく普通の空き地で、瓦の破片が至る所に転がっていました。昭和40年代、私が高校生の頃、屋敷跡から何枚か瓦を拾ってきた記憶がありますが、自宅を探しても見当たりません。(残念です。文字がはっきり読めたのに)地元の人たちもその重要性に気がついていませんでした。
詳しくは飛鳥田一雄著「素人談義三人ジェラール (1974年有隣堂刊)」に語られています。

最後にもう一つ歴史の皮肉ともいえるエピソードを。
飛鳥田一雄は市長を任期終了直前に辞任し、社会党委員長になります。
1980年5月16日に飛鳥田率いる社会党が浜田幸一衆議院議員のラスベガス・カジノ疑惑など一連の自民党のスキャンダルを理由提出した大平内閣不信任案が与党自民党一部による造反で1953年以来27年ぶりに内閣不信任決議可決します。
初の衆参同日選挙が行われますが、選挙中大平正芳の急死により自民党が勝利します。
いわば憤死した大平正芳は、大蔵省入省後税務畑を歩み昭和12年結婚直後、横浜税務署長となりに紅葉坂の官舎に住み、その後(飛鳥田の地元)磯子区字浜1666に転居します。その時、飛鳥田一雄22歳でした。

No.189 7月7日(日) ぼくは日本人を信じます
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/07/no18977.html
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2012年2月26日日曜日

No.57 2月26日 ある街のある店の歴史

1936年(昭和11年)のこの日、東京横浜電鉄東横線綱島温泉駅前に一軒の菓子店が開業しました。店の名は御菓子司「や満田屋製菓」、現在港北区で一番歴史ある老舗菓子店です。
この年昭和11年は雪の多い年でした。特に2月に入り4日、23日と続いて大雪が東京近郊を襲い積雪は30cmを越えました。そして開店の26日は早朝からしんしんと雪が舞い忘れられない一日となりました。
期間限定桃まん
(お店の写真 あとで)
綱島の御菓子司「や満田屋製菓」が開店した日、時代を揺るがす226事件が起りましたが、夜までほとんどの市民はこの事件を知りませんでした。当時唯一の電波メディアだったラジオ放送も、全ての新聞(夕刊版)も一切この事件を報道しませんでした。
第1報が陸軍省発表として初めて伝えられたのが26日の20:35の臨時ニュースでした。
「本日午前5時ごろ一部青年将校等は左記個所を襲撃せり。(後略)」
積雪35センチ以上の大雪の中、無事開店を終えた「や満田屋製菓」のある綱島界隈は、十年前の1926年2月に開通した東京横浜電鉄神奈川線の綱島温泉駅開設で一気に賑わいを見せはじめていました。急行も運転を開始し、東京の奥座敷として多くの観光客も訪れていました。

綱島の歴史は鶴見川の氾濫の歴史でもあります。現在では静かな川ですが、昭和時代まで暴れ川でした。水害も多く、耕作地としても不向きでしたが、水が氾濫しても作付けに影響の少ない「桃栽培」を始めることで、綱島は桃の名産地に生まれ変わります。当時、桃は「西の岡山。東の綱島」といわれました。現在でも少し桃畑が残されています。(その桃で地麦酒が造られています)
桃が次第に斜陽になってくるのと前後して温泉が発見されます。綱島は一気に桃畑から温泉場に変身します。東京横浜電鉄(後の東急)の延長とも重なります。
1944年に綱島温泉駅は現在と同じ綱島駅に改称されますが、綱島温泉は1970年代まで東京近郊の温泉場として賑わいますが、伊豆箱根に客を奪われ温泉場は首都圏のベッドタウンに変化して行きます。現在では昔の面影を確認できる場所は限られてきましたが、古民家、桃畑、ラジウム温泉もかろうじて残されています。
横浜ビール製綱島桃ビール


老舗「や満田屋製菓」もまた綱島の歴史を見守る激変の街綱島の生証人です。はまどらがおすすめです。
http://www.tsunashima.com/shops/yamadaya/

※エピソードネタ
歌手、三橋美智也は下積み時代 綱島温泉東京園でボイラーマンをしていました。その後成功し温泉ホテルに関心が強く、熱海に温泉ホテル「サン三橋」を建てます。皮肉にも綱島温泉のように時代に合わず、経営に失敗し手放します。現在はホテルサンミ倶楽部となっています。
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2012年2月25日土曜日

No.56 2月25日 絹と女と桑畑

イギリスの貿易商社ジャーディン・マセソン商会のオフィスがあった居留地1番に建つシルクセンター界隈は横浜の歴史を語る上で欠かせない場所です。1969年(昭和44年)の今日、シルクセンター開館十周年を記念して彫刻家安田周三郎氏の「絹と乙女」像と桑が植樹されました。
数年前の写真です。現在はかなり剪定されています
1959年(昭和34年)横浜開港100周年を記念して建てられたシルクセンターについては後日ご紹介します。本日は、十周年記念として、シルクに因んだ桑の木と絹をテーマにした「絹と乙女」像の作者、彫刻家安田周三郎についてご紹介しましょう。
桑の木は絹を生成するために欠かせない蚕の食料です。良質な桑を生産し安定した温度の下で生育した蚕の繭から良質の絹が生まれます。シルクに桑は欠かせません。
彫刻家安田周三郎(1906年-1981年)は東京生まれで東京美術学校を卒業し彫刻の道に進みました。日展の審査員、評議員を歴任します。横浜国立大学で教授として教鞭もとり多くの教え子を送り出しました。安田周三郎は地元横浜に教師としてゆかりのある彫刻家ですが、彼の姻戚関係は華麗なる一族としても深く横浜に関係があります。
安田周三郎は、安田善三郎の三男として生まれました。安田財閥創設者善次郎の孫にあたります。安田善次郎の名は鶴見線「安善」駅に残っているように横浜で成功した財界人です。
周三郎は善三郎の三男となっていますが、実は四男でした。
では三男は誰か?
歌舞伎ファンには有名な話しですが、安田善三郎の三男は十三代目 片岡仁左衛門です。十一代目片岡仁左衛門の養子に入りこの世界で人間国宝になります。
兄は画家の安田岩次郎で息子は建築家の安田紫気郎と魚類学権威の安田富士郎です。財界人だけではなく、様々な分野に逸材を出した一族です。
周三郎の妹、磯子は小野家に嫁ぎその娘がオノ・ヨーコです。
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No.55 2月24日 YOKUHAMA HOTEL-KANAGAWA

(2014年2月24日に加筆修正予定です)
開港時、横浜には様々な国籍の外国人がいました。
イメージ的にはイギリス、フランス、アメリカが目立っていますが、長崎で長く日本とつきあってきたオランダ人も活躍していました。1860年(安政七年)の今日、オランダ人C.J.HUFFNAGELが居留地70番に日本初のホテルを開業しました。
1858年8月18日(安政5年7月10日)にオランダとはアメリカ同様に修好条約が結ばれました。締結場所は江戸です。ちなみに
日米修好通商条約の批准書を交換するためにアメリカに渡ったのが万延元年遣米使節で、ポーハタン号でペリーの日本再訪の際の黒船の一隻でした。正使として新見正興、副使村垣範正、監察小栗忠順を代表とするチームでしたが、その随行でアメリカに向かったのが「咸臨丸」です。なぜか「咸臨丸」の方が有名になってしまいました。

オランダとも条約締結した翌年開港場横浜に一隻のオランダ船が入港します。フフナーゲル(C.J.HUFFNAGEL)船長率いるオランダ国王の名を持つ「ナッソウ」号です。入港の目的は未確認ですがフフナーゲル船長は「ナッソウ」号を売却しその資金でホテルを開業します。その名も「YOKUHAMA HOTEL」ですが、船の名から「ナッショウ住家(ホイス)」と呼ばれました。しかもチームナッソウのクルーも従業員となります。沈まない船を運営したようなものです。
この「YOKUHAMA HOTEL」オープニングに訪れた(可能性大)二人のオランダ人船長が二日後、江戸幕府を震撼させる事件に巻き込まれます。1860年2月26日の夜午後7から8時頃、本町通りあたりでオランダ人船長のW・デ・フォス(WesseldeVos)と、N・デッケル(JasperNanningDekker)が外国人排斥を狙う攘夷派によって斬殺される事件が起りました。生麦事件が起る二年半前の出来事です。
初めて日本が外国に賠償金を支払うことになった事件です。
「YOKUHAMA HOTEL」のメンバーも近くで起きた事件だけにかなり驚いたに違いありません。
現在居留地七十番の場所には「レストラン かをり」があります。洋上ホテルである豪華客船の元料理長が開いたお店がこの場所にあるのも何かの縁でしょう。

新聞広告の文面
YOKUHAMA HOTEL-KANAGAWA
The undersigned hegs to intimate that be has just opened the above establishment where families and others can be accommodated with comfortable Board and Lodging, in good style and at moderate charges.
The Hotel is well furnished amd beautifully situated,and.having now supplied a long recognized public want,the undersigned relies on the support of residents and visitors,to whose comfort and couvenience every attention will be paid.
C.J.HUFFNAGEL
9ju Yokuhama,February 24th,1860.
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No.54 2月23日 麒麟麦酒株式会社創立

横浜人は、はじめて物語が大好きです。
数ある“横浜はじめて物語”で一番ポピュラーな「はじめて」は「麦酒」でしょう。
1907(明治40年)の今日は横浜から育った麒麟麦酒株式会社の創立記念日です。

開港の都市ですから、多くの文化が横浜経由で入ってきました。

当然、文化の先進性の立地にありましたから「横浜で新しい情報」が入手できたことは間違いありません。
横浜に“はじめて”が多くあるのは新しい情報があっただけではありません。

(起業都市横浜)

成功、失敗かなり繰り返しながらも「起業し、生業を生成してきた」街が横浜であると思います。
その中で、起業の苦難を乗り越えたエクセレントカンパニーが「麒麟麦酒株式会社」です。
麦酒会社を今作るのは至難の技です。
何百という法律に縛られています。
明治時代は、走りながらルールを作ってきました。
矛盾も抱えてきました。「坂の上の」時代です。
麦酒業界も明治期に乱立します。
しかし、1900年代に入ると業界の様相は大きく変化します。海外の例に習い、1901年(明治34年)に新しい麦酒税法が施行されます。
国が近代化するとき必ず安定した税収の柱にするのが「酒税」です。
(独立独歩)
小さな醸造業者各社はその負担に耐え切れず淘汰されていきました。
そこで政官業で極度の競争を回避し安定した市場を維持するため
札幌麦酒・日本麦酒・大阪麦酒の3社合同により大日本麦酒株式会社が設立されます。
市場シェア70%をこえる独占資本の成立です。
その中で、麒麟麦酒株式会社は三菱グループの下、独自の道を選びます。
No.283 10月9日 (火)三角菱のちから
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/10/no283-109.html


戦後、GHQによる「過度経済力集中排除法」に基づき、昭和24年「大日本麦酒株式会社」は分割され「日本麦酒(現サッポロビール)」と「朝日麦酒(現アサヒビール)」となりました。
財閥解体で大日本麦酒株式会社が東西(南北)で分割され、東がサッポロ、西がアサヒに分社されました。
1954(昭和29年)年にキリンビールは、ビール業界のトップシェアを初めて獲得します。
前々、保土ケ谷にも麦酒会社がありました。
現在の横浜ビジネスパーク(YBP)がある場所ですが、このYBP近くにはビア坂という名称が現在も残っています。
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No.53 2月22日 アーティストツーリング

明治の画壇を牽引した黒田清輝は1902年(明治35年)の今日、東京から横浜まで観梅を兼ねてツーリングに友人七人と出かけました。
全員30代から40代の当時なら中年(ちょいわるおやじ)軍団だったかもしれません。
本文とは直接無関係ですが明治からサイクリングは人気だったようです
黒田 清輝は、鹿児島県鹿児島市出身の洋画家で薩摩藩士黒田清兼の子として生まれました。
通称は黒田新太郎と呼ばれていました。
「くろだせいき」はペンネームで、本名の読みは「きよてる」です。
築地英学校から東京外国語学校を経て、1884年から1893年まで渡仏します。
当初は法律を学ぶことを目的とした留学でしたが、パリで画家の山本芳翠や藤雅三、美術商の林忠正に出会い子供の頃学んだ絵画への思いが起ち、1886年に画家に転向することを決意します。東京美術学校の西洋画科の発足に際して教員となり、以後の日本洋画の動向を決定付けた日本洋画界の巨星です。
代表作
黒田の日記には下記の通り書かれています。
二月二十二日 土
自轉車旅行の催有り 午後一時を期し品川停車場前の茶見世に會す 來る者久米 佐野 菊地 小代 中丸 小林 合田及拙者の八人也 舊東海道筋を走り横濱を經杉田に到る 此處にて月の出を眺め山を越え金澤東屋ニ一泊
戦前は杉田は梅の名所でした。自転車で観梅ツーリングなんて
なんてしゃれている嗜みでしょう。

ここに登場する8人とは誰だろう?調べました。


●久米桂一郎(1866〜1934)佐賀出身、洋画家36歳。
http://www.kume-museum.com/corner_kei.html
佐野昭(1866〜1955)江戸出身、彫刻家36歳。
菊池鋳太郎(1859〜1944)江戸出身、彫刻家43歳。
小代為重(1860〜1951)佐賀出身洋画家42歳。
中丸蓮一か?東京出身
小林万吾(1870〜1947)讃岐出身、洋画家32歳。
合田清(1862〜1938)江戸出身、版画家40歳。
黒田清輝(1866〜1924年)鹿児島出身、洋画家36歳。

黒田、久米、佐野は同年代で最年長は菊池鋳太郎の43歳です。
このツーリング計画は事前に計画され、その予行練習もおこないました。
明治期は、自動車もほとんど普及していない時代ですから、最先端の移動手段でした。彼らだけではなく、ツーリングブームだったようで、横浜の自転車店も最先端ショップとして繁盛したようです。
(白馬会創立)
このツーリングに参加したメンバーの多くが黒田清輝を中心に発足した従来の画壇に一石を投じようと集まった洋画団体「白馬会」同志でした。
1911年(明治44年)3月、白馬会は、所期の目的を達したとして解散しました。

実は彼らは 事前にちょっとリハーサルをしていました。
二月十六日 日
久米 合田 佐野 中丸 伊藤の五人と自轉車にて雜司ケ谷邊ヨリ飛鳥山へ出田畑根岸へ廻る
二月十七日 月
自轉車修繕の爲合田同道三田四國町へ行 午後二時より文部省ニ於て會議
二月十九日 水
夕刻押川氏 鈴木貫一郎氏を訪ふ 夜自轉車にて三河臺町小代方まで行く
二月二十一日 金
始めて自轉車にて學校へ行 歸路山口勝氏 佛公使館 Andre 氏夫妻ニ逢ふ

もう一つ
 偶然の一致ですが2月22日にもう一つ 自転車に関する偉業が横浜から始まりました。

1902年(明治35)2月22日
日本人初の自転車世界旅行を「中村春吉」が横浜港を出発します。
この時期の自転車は既に現代の自転車とあまり変わっていません。
タイヤも空気入りのセーフティー型が使用されました。
1903年(明治36年)5月に帰国します。
この偉業は 本にもなっていますので どこかで読んでみようか?
と思っています。

ということは 横浜で撮影?
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2012年2月21日火曜日

No.52 2月21日 東洋一の遊園地(加筆修正)

京浜急行線に「花月園駅」があります。
2010年までは競輪場がありました。
この「花月園」の名は東洋一の遊園地の名から来ました。
1914年(大正3年)に平岡廣高氏が開業し、
関東大震災を挟み18年間個人営業を続けましたが、個人経営の限界を迎え
1932年(昭和7年)の今日、新生「株式会社花月園」がスタートしました。

鶴見花月園は数多くのエピソードを持つ横浜黄金時代の証です。
戦前の横浜がいかにベンチャー都市として成功していたかを物語る最高の事例がこの「花月園」でしょう。
昭和30年代競輪場のころ
昭和初期
横浜は関東大震災、戦災、進駐軍接収という三重苦を乗り越えてきましたが、その荒波の中「花月園」のような“横浜発の先取の文化”が消え去って行きました。
東洋一の遊園地「花月園」は公称10万坪(7万坪程度)の敷地に、
大観覧車(愛称はベティさん)、屋内スケートリンク、動物園、大ダンスホール、園内の鉄道、プールといった当時としては最大級、最新鋭の遊戯施設が設置されました。
フランスのフォンテンブローにあった遊園地をモデルにしたと云われています。
京浜電気鉄道(現在の京浜急行)はこの遊園地のために駅を建設しました。
「桃は西の岡山 東の綱島」と呼ばれたように『西の宝塚・東の花月園』と呼ばれました。
大成功すれば競合が現れるのは市場の原理です。
あらかわ遊園、谷津遊園、多摩川園、野毛山公園など遊園地が続出します。
しかも個人経営でした。
近所に競合『三笠園』が確認できます。
次第にその勢いは衰えて行きます。
最終的には沿線に集客装置が欲しかった京浜電鉄と大日本麦酒が資本を出し株式会社化し経営を刷新します。放漫経営でも無く、破綻でもありませんでした。円満に経営譲渡が行われ、新生花月園が2月21日オープンします。
この劇的なエピソードが詰まった一冊が「鶴見花月園秘話」です。
この本からエピソードを二つ紹介しましょう。
「六郷渡れば川崎の万年屋、鶴と亀とのよねまんじゅう、こちゃ神奈川急いで保土ヶ谷へ』と『お江戸日本橋』にも唄われた鶴見宿の名物に米粉を使った「よねまんじゅう」がありました。
明治5年に鉄道の開通し、宿場が廃れ姿を消します。
この「よねまんじゅう」を大正期に復活させたのが「花月園」の平岡廣高でした。
戦後花月園の閉園とともに姿を消しますが、
1982年(昭和57年)に地元菓子組合のもとで復活します。
京急鶴見駅近くの「清月」さんの「よねまんじゅう」を時々買います。
もう一つのエピソードは、
エリアナ・パブロワです。
1927年(昭和2年)鎌倉七里ヶ浜にわが国初のバレエ稽古場を開き、
妹のナテジタ・パブロワと共にクラシック・バレエを本格的に教授し始めたロシア人です。
パブロワ姉妹は、1922年(大正11年)に横浜で創設された露西亜舞踏劇協会の県知事の推薦で「花月園舞踏場」のダンス教師になります。
鎌倉七里ヶ浜のバレエスタジオは
妹ナテジタ・パブロワさんが1982年(昭和57年)に亡くなられるまで使われていました。

■No.161 6月9日(土)  日本、ロシアに勝利!
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/06/no16169.html

高校時代、学校の近くに斜面に建つ白亜の屋敷のスタジオに一度だけお邪魔したことがあります。
紆余曲折あり、記念館になった時期もありましたが
現在は関係のない方の個人宅で公開しておりませんので大変貴重な経験でした。
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2012年2月20日月曜日

No.51 2月20日 海の公園計画発表

横浜市は江戸時代から現在まで埋立てを繰り返しながら少しずつ土地を拡大して行った街です。
特に海の公園は、
横浜市の市域拡大(埋立て事業)の中でもちょっと変わったコンセプトで作られた人工の砂浜です。
この計画が市議会で発表され、事業が具体化されたのが1970年(昭和45年)の今日でした。
今日は「海の公園」についてご紹介しましょう。

横浜市は1889年(明治22年)4月1日に市制が施行された当時、面積は横浜港周辺の5.4 km² にすぎませんでした(セントラルヨコハマエリア)。
6次にわたる拡張(近隣行政区域編入)と埋立てにより統計では2006年現在437.98 km² ですが現在も少しずつ増え続けて(埋め立てが行われて)います。

江戸時代の埋め立ては新田開発が目的でした。
明治以降昭和30年代までは港を中心とした工業用地確保が主な目的でした。
中でも、1965年(昭和40年)に発表された飛鳥田市長の6大事業プランの一つが「金沢地先埋立て事業」でした。
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/02/227.html
その最大の目的は市内に点在する中小企業を移転させて事業の効率化を計ると同時に市内の住環境を改善する目的がありました。同時に6大事業の柱の一つに、現在のみなとみらい地区開発がありました。そのためには三菱造船及び近辺にあった関係工場の移転が必要でしたので、「金沢地先埋立て事業」とまとめて行ってしまおうというものでした。
ここまでは、従来の「産業誘致」「工場団地」発想と同じですが、同時に住宅地、レクリエーション地にわけて都市デザインのコントロールの下に整備することが決まりました。
この計画の目玉が人工の砂浜公園「海の公園」を作ることでした。横浜は工業化の波に乗りほとんどの海岸線を第二次産業の用地に転換してきました。
横に広がる浜であった「横浜」の唯一の自然海岸は「海の公園」のできた対岸「野島海岸」だけです。このエリア一帯の自然を維持していくという命題も背負いつつ「海の公園」は造られました。

前置きが長くなりましたが、現在の「海の公園」情報はこちらからどうぞ。

サイトでも触れていますが、海水浴場の砂は対岸の千葉県富津市の山砂を運び、海底に5年ほど仮置きしたものを使用しました。
人工の砂浜づくりはかなり苦労したそうです。
『「海の公園」は、「海の自然再生と環境の保全」、「海辺の多様なレクリエーションとスポーツの場」をコンセプトに横浜市が整備し、昭和55年に潮干狩り場として、昭和63年には海水浴場としてオープンし、以来、年間約180万人の市民が訪れています。』(里海ネット)です。
平成元年には沿岸をつなぐ新交通システム「シーサイドライン」が開通します。

そして平成5年(1993)に八景島シーパラダイスがオープンとし、この「金沢地先埋立て事業」の骨格ができあがります。
野島公園の展望台から眺める「海の公園」を含む一体の風景は、20年の時が流れ平潟湾から続く美しい自然として溶込んでいます。春口の景色は絶景ですよ。
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2012年2月19日日曜日

No.50 2月19日 横浜地裁で注目の公判

本日50話目です。
横浜市中区北仲にあった横浜地方裁判所(現在は国の合同庁舎)で1917年(大正6年)の今日、世間注目の公判が行われました。

(余談から)
横浜地方裁判所は、明治5年神奈川県庁内に司法裁判所として設置され横浜市中区山田町に移転します。
明治10年に北仲通5丁目の元フランス公使館跡に新庁舎が建てられます。
大正12年関東大震災により、倒壊焼失したため民家等で暫定業務を行い、まもなく横浜公園内の仮庁舎で業務を開始します。
そして、大正14年(現在の所在地)中区日本大通9番地に建っていた遠藤於菟設計の旧横浜生糸検査所を模様替えし移転します。
この建物は震災の影響をあまり受けることのない優れた建築でした。
地震、戦災でも朽ちること無く増床のために建て直すまで現役でした。
全国裁判所数々あれど、こんなに移転した裁判所は、横浜だけではないでしょうか。
(未調査ですが恐らく間違いないと思います)

話しを本題に。
世間注目の公判とは、「日蔭茶屋事件」のことです。
小説はもちろん、映画、舞台にまでなった有名な男女4角関係の色恋沙汰です。
事件は1916年(大正5年)11月8日、葉山にある江戸時代から(現在も)続く老舗日蔭茶屋の一室で起きました。
「東京日日新聞」の記者神近市子(28歳)が、元恋人、アナーキストの大杉栄(31歳)に包丁で斬りつけ怪我を負わせ自首したという事件です。
当時新聞雑誌等で有名になっていた二人です。現場には、大杉の新しい恋人、神近が記者になる前に勤めていた「青鞜社」の後輩 伊藤野枝(21歳)が一緒いました。
神近市子が身(資金)も心も捧げていたのに大杉はその金で、別の女 伊藤野枝と遊び回っていることに嫉妬し、刃傷沙汰に至ったという顛末です。
さらにこの二人には複雑な関係がありました。
被害者の大杉にはすでに妻、堀保子(大杉は夫婦別姓を主張)がおり、伊藤野枝には思想家、辻 潤という夫がいるダブル不倫だったからです。
しかも(被告)神近と伊藤野枝の旦那、辻 潤とは親交がありましたから、この色恋沙汰の行方に世の中(新聞雑誌)は沸き立ちました。
大杉栄、伊藤野枝は当時多くの議論を巻き起こした「自由恋愛」を主張していました。
自由とはいえ恋愛関係に理屈は通りません。
この事件のあった明治後半から大正期は雑誌創刊ラッシュの時代でした。
女性の意識が大きく変化しつつある時代でした。女性を読者とする(婦人)雑誌が50誌近く創刊され、テレビラジオの無い時代の最大の娯楽メディアとして育ったのです。
平塚らいてうが創刊した「青鞜」もその一つでした。
他にもざっと調べただけで
「女学雑誌」「以良都女」「花乃園生」「女鑑」「家庭雑誌」「大倭心」「女学世界」「をんな」「婦人界」「家庭の友」「婦人画報」「婦人世界」「婦女界」「淑女かゝみ」「婦人評論」「大正婦女社会」「家庭之園芸」「女の世界」「婦人週報」「婦人公論」「黒潮」「主婦之友」「才媛文壇」「処女文壇」「千葉県婦人脩養と文芸」「人間社会」「中外」「文明批評」「女子文芸」「抒情文学」「人間」「演芸」「女性日本人」「婦人くらぶ」「夜の幕」「恋と愛」「青春時代」「処女地」「女性」「女性改造」「世界趣味写真帖」「村雲」「新興」「愛の泉」「テアトル」「秀才文芸」「生活者」

といった雑誌が創刊されました。この雑誌発行部数を引き上げた特集が自由恋愛を標榜していた彼女達の発言、投稿、行動だったのです。
例えば、神近市子は雑誌に「私事このたび大杉栄氏と従来の関係を絶ちましたので、是まで何かとご心配された方々に対し、とりあえずご報知申し上げます」といった広告で私生活を公開して行きます。
当然批判も雑誌で展開されます。
「日蔭茶屋事件」に至っては犯人が社員だった「東京日日」対他社で報道合戦が過熱します。
横浜地方裁判所で開かれた公判で神近市子は懲役3年の判決を受けます。神近市子とともに新宿中村屋で朗読会に参加していた仲間、秋田雨雀はこの公判を毎回傍聴し、暖かく彼女を見守ります。
大杉、伊藤はその後事実婚となり社会運動に傾倒していきますが、関東大震災のどさくさに甥の橘宗一と共に憲兵に連行され殺害されます。
この事件は、闇に葬られず世間を騒がせます。主犯として憲兵大尉の甘粕正彦と彼の部下は有罪になります。
「日蔭茶屋事件」をテーマにした作品

深作欣二監督「華の乱」東映(京都)作品
吉田喜重監督 映画『エロス+虐殺』
瀬戸内晴美『美は乱調にあり』
地人会第22回公演 ブルーストッキングの女たち
劇団俳小32回本公演 美しきものの伝説

※今回は 完敗です。要素が大杉で 否 多過ぎて 消化不良です。単純に整理すれば良かった。リベンジしますこのネタは。面白い。
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2012年2月18日土曜日

No.49 2月18日 過去に学ばないものは過ちを繰り返す

幕末から明治にかけて、様々な欧米スタンダードが押し寄せました。
目の前で起る現実に政治と立法が追いかけて行く時代でした。
特に通貨制度は諸外国と全く違うため「ハゲタカファンド」の餌食となりました。
通貨主権を取り戻す一つの政策として
1879年(明治12年)のこの日、外国の貨幣(洋銀)相場を日本が統制するために民間資本で作った「横浜洋銀取引所」開業の認可がおりました。
修好条約第5条
ペリー来航によって結ばれた「安政の五カ国条約」には我が国の通貨主権が明記されていませんでした。これは、致命的な国際条約です。国内に外国通貨が流通することを認めてしまったからです。文久3年以降、外国銀行が上陸し為替制度を独占します。幕府の財政が破綻寸前まで追いつめられます。「明治維新」は、徳川政権の財政破綻に対する少々乱暴な薩長土肥の政権交代と考えることもできます。
明治政権になり、政府は為替リスクを回避するために対策を打ちますが、完全に通貨主権を回復するのに明治30年までかかります。まず外国に対抗する銀行の必要性を認識し、横浜為替会社(横浜銀行の前身)を明治2年に設立します。そして明治12年には横浜正金銀行(東京銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)の前身)の設立許可が出ます。
この年、民間側からも外国貨幣(洋銀)取引の制限を求める要求を政府に行い認可されます。これが冒頭の横浜洋銀取引所です。
この横浜洋銀取引所設立に結集した横浜のキーマンは、
渋沢栄一・渋沢喜作・大倉喜八郎・茂木惣兵衛・吉田幸兵衛・中村総兵衛・西村喜三郎・田中平八・原善三郎という当時のトップ財界人でした。
当時、洋銀相場ビジネスは上手くいくとぼろ儲け状態で、1,000円の資本で年2,000円の利益もざらだったといいます。儲かる一方で、一気に差損も生じるまさに「山師」の世界でしたので、市場の秩序を求めたのです。
(当時の洋銀のほとんど)がメキシコ銀貨でした
横浜洋銀取引所を設立しますが、努力の割にほとんど成功しません。写真家で有名なフェリーチェ・ベアトは財テクのベアトでもありました。(2月16日参照)彼は1884年に横浜洋銀取引所を通して為替相場に大失敗し一文無しになります。よっぽどこたえたのか横浜(日本)を離れ(55歳の時)二度と日本の地を踏むことは無かったそうです。
通貨主権獲得のために思い切った政策を打ち出し成功したのが、松方正義です。明治14年の政変で大隈重信が下野し、それまで大隈と対立していた大蔵省官僚松方正義が大蔵大臣となります。いわゆる「松方デフレーション政策」で財政収支を大幅に改善します。
一方でこの改革は大きな犠牲も伴い国民の大きな反感も持たれました。
※余談 江戸からの伝統で硬貨は四角で予定されていましたが、時の大隈重信が硬貨は丸い方が良いと主張し丸くなったそうです。

過去に学ばないものは
過ちを繰り返す
ジョージ・サンタヤーナ(19世紀のスペインの哲学者)
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2012年2月17日金曜日

No.48 2月17日 さよならYDL

本日も昨日に続き「さよならネタ」です。2002年(平成14年)のこの日、横浜ドリームランドが閉園しました。1964年にオープンし、38年の歴史に幕を降ろしたのです。(黄金時代にデートコースにした方も多いのでは)
1983年YDL上空半分以上宅地化
横浜ドリームランドは、佐賀出身の歌舞伎役者、松尾國三が一代で築いた日本ドリーム観光が手がけたテーマパークの一つです。当時いち早くディズニーランドを模倣した奈良ドリームランド開園に引き続き三年後の1964年、横浜市戸塚区俣野町700番地に約1,320,000m²の規模でオープンしました。
「昭和の興行師」、「芸能界の黒い太陽」の異名を持った松尾國三の一生は、盟友だったダイエー創業者の中内功と大きく重なります。ワンマンの決断力が時代を切り開き、そのワンマンが自社を潰すという典型的な悲劇の企業モデルです。
約1,320,000m²が閉園時には145,776m²しか無く、土地を切売りしながら必至に活路を見出そうとした姿はあわれな末路というほかありません。
横浜ドリームランドをめぐる顛末はネットで様々な情報が提供されています。貴重な教訓として一度レビューされることをお勧めします。
横浜ドリームランド、開園当初の方向は正しかったと思います。(ディズニーランドコピーの是非は別ですが)遊園地やボウリング場、スケート場、ショッピングモール、映画館そして高級ホテルを備えたレジャー施設でした。
決定的失敗要因は、モノレールの欠陥による運転休止につきます。というより、送客設計の甘さです。原宿のボトルネックを軽くみたことが全ての運命を決定づけました。
車社会が急速に発展する中、国道一号線原宿交差点付近は神奈川有数のボトルネックと当時も認識されていました。原宿はXポイント、つまり二方向から車が集中し、二方向に分かれるネック部分にあたっていました。横浜新道と一般国道が合流する「戸塚」と、湘南地方と藤沢市内に分かれる「俣野」の根元に原宿が位置していたからです。

最寄り駅「大船」からバスで土日は一時間かかることもありました。当初のモノレール計画では8分を予定していました。この差は決定的でした。
現在、原宿交差点立体化は実現しましたが、周辺の道路計画は遅々として進んでいません。

一つ、横浜ドリームランドが残した価値ある遺産があります。ホテルエンパイヤの建築です。当時68mの高さを誇る高層ホテルは画期的でした。しかも現在、現役で活躍しています。1962年8月に高さ規制が解かれたものの施主が二の足を踏んでいた頃、高層ビルの設計はゼネコン各社が是非手がけてみたい事例でした。外観を五重塔のようにしたい、という施主のリクエストに対し設計者は構造も五重塔にヒントを得ます。この経験値が現在の高層建築に役立っていることはいうまでもありません。
1968年に完成した世界を日本を驚かせた「霞ヶ関ビル」36階の設計にこのホテルエンパイヤ(地上21階、地下2階)完成が大きな自信を与えました。
現在大学図書館として再利用
(GNU Free Documentation License)

ホテルエンパイア
http://www.obayashi.co.jp/works/work_H727
大林組百年史より建設当時の姿
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2012年2月16日木曜日

No.47 2月16日 ヨコハマグランドホテル解散

ヨコハマグランドホテルとニューグランドホテルは全く別のものです。
経営上の繋がりは一切ありません。
が歴史的文脈上はグランドホテル無くしてニューグランドはありません。
1927年(昭和2年)のこの日、震災で焼失した(The Grand Hotel Yokohama)が再建を断念し会社を解散しました。



ここでは、明治から大正期に高級ホテルとして輝いたThe Grand Hotel Yokohamaのエピソードを紹介します。
このホテルの創業に関わったのは写真家ベアトです。(ベアトも横浜開港史を語るとき必須の人物です)1870年(明治3年)夏にベアトが購入した英国公使館跡地の建物を(グリーン夫人が)石造りのホテルとして開業しましたが上手くいきませんでした。(写真家は財力があったんですね)
場所は海岸通20番地エリア、フランス波止場(西波止場とも)近くです。(マップ参照)現在の人形の家近辺ですね。(フランス山もすぐ近くです)
※ちなみに横浜には開港時三つの港がありました。元町よりのフランス波止場、現在の大桟橋エリアのイギリス波止場、そして万国橋エリアの日本波止場です。

立ち行かなくなったホテルは再度ベアトが資金調達し明治6年に改装オープンします。その後、1889年(明治22年)に個人経営から法人化(株式会社)します。翌年の明治23年にフランス人の建築家サルダ(Sarda,Paul)設計により、隣接の18・19番に新館を増築します。室数は200余りと横浜を代表するホテルとして関東大震災で焼失するまで営業していました。
サルダ(Sarda,Paul)は、「1月16日 指路教会建つ」でヘボンと指路教会会堂の時に紹介した建築家です。
当時、高級ホテルのノウハウはやはり英仏、特にフランスが持っていました。ホテルの朝食にもこの伝統が流れています。コンチネンタルブレックファースト、ブリティッシュ ブレックファースト(アメリカンブレックファースト)ですね。
海岸通20番地エリアはフランスの支配が強く感じられるエリアでしたので、フランスの高級ホテルの名を使い(The Grand Hotel)としたのでしょう。余談ですが、スウェーデンのストックホルムにある世界的にも有名な5つ星「グランドホテル」は1872年(明治5年)にフランス人の(Jean-François Régis Cadier)によって設立されたホテルです。
関東大震災が無ければ、もしかすると現在もThe Grand Hotel Yokohamaが営業していたかもしれません。

少し長くなりますが、グランドホテルをかたるときに 忘れてはいけない人物がいます。
1889年(明治22年)支配人として、サンフランシスコからルイス・エッピンガー(Louis Eppinger)が着任します。
※カクテルの紹介コーナーでルイス・エッピンガーをバーテンダーと紹介していますが、資料をさがすと支配人と紹介されていますのでここでは支配人と紹介しておきます。

エッピンガーは着任2年目の1890年、新しい創作カクテルの考案に取り組みます。
エッピンガーはカクテルに造詣が深く、アメリカ時代に(1885年頃)ニューヨークで人気を博したカクテル「アドニス」をバーのメニューに加えます。「アドニス」とはライト・オペラと呼ばれた草創期のミュージカルのタイトルで、ギリシア神話を題材にした女神アフロディーテ(ヴィーナス)と四季の始まりとなった逸話を残すペルセポネの二人に愛された美少年アドニスの代表的悲劇をアメリカ流にアレンジしたものです。
1880年代空前のロングランヒットとなり、19世紀まで主流だったブランデーに代わり人気のあった手軽で高級感のあるシェリー酒、特にフィノベースのカクテルが作られました。
ドライ・シェリー3分の2、スイート・ベルモット3分の1、オレンジ・ビターズひと振りをステアしてカクテル・グラスに注いだものです。食前酒としておすすめです。
この「アドニス」をエッピンガーは横浜版にアレンジしました。
スイート・ベルモットをドライ・ベルモットに変えたのです。
「アドニス」に比べ甘さが抑えられ「竹のように素直でクセがなく、すっきりとした辛口に仕上げられた」ためエッピンガーは「バンブー」と名付けたそうです。
私の珍説(仮説):「電灯の事業化に成功した」エジソン(1847年2月11日 - 1931年10月18日)は、1879年(明治12年)に実用化しますが、そのフィラメントに京都岩清水八幡宮脇の竹林から採取した竹を使い成功します。
http://www.iwashimizu.or.jp/story/edison.php?category=0

それから10年経っていますから、ニッポンバンブーというブランドはアメリカでも話題になっていたのではないでしょうか。
海を渡った美少年(アドニス)は、アメリカに渡った「竹」を割って生まれた「かぐや姫」に?

No.295 10月21日(日)先達はあらまほしきことなり
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/10/no2951021.html

(グランドホテル焼失)
関東大震災は、横浜のほとんどの建造物を倒壊、焼失させます。再建を試みるもの、諦めるものありましたが、グランドホテルは後者を選びます。
国際ホテルの必要性を感じた横浜市内の財界、市役所の総意で1927年12月1日現在のニューグランドホテルがオープンします。
敷地は幕末に開設されたフランス海軍病院跡でここでもフランスとの因縁があります。
またまた余談ですが、福沢諭吉が欧州を巡った時、帰路パリで泊まったホテルはグランドホテルです。
ニューグランドホテルに関しては別の日に様々なエピソードをご紹介しましょう。
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