2012年1月3日火曜日

No3 1月3日(火) 大火事

正月早々物騒な話しだが
火事と喧嘩は江戸の花ならぬ「開港場横浜」でも火事がつきものだった。
1860年(安政六年だと12月11日)のこの日、
開港まもない外国人居留地で大火事があった。
当時はまだ洋館ではなく当座の建物が建ち並んでいた。
というのも、横浜はこの時期まだ正式な港ではなかった。
欧米列強(政府)からは江戸に近い「神奈川」を開港場として要求されていたが、幕府はなるべく江戸から遠ざけたかった。
それこそペリーが最初に上陸しハリスが領事館を構えた伊豆の下田でも良かったくらいだから、神奈川といえば喉元に来るようなもの。
幕府としては戸部の山を越えた横浜村に(押し込めたかった)が、アメリカ領事ハリスは納得していなかった。
ただ現場、外国人貿易商達は横浜の街が気に入っていたようだ。
大型船舶が停泊できる港、江戸までは少し不便だったが治安のよい街をビジネスの場としては評価していたようだ。そんな矢先この大火事が起きた。
対岸の神奈川からも日本人が多く駆けつけ消火を手伝ったという。
そのため外国人にも日本はかなり信頼された。
鎮火後すぐに開かれた総会で消火に当たった日本人への感謝の意が決議されたくらいだ。
この総会で今後の活動の場をどうするか、話し合われた。
国家間では開港場を神奈川かどうかやりとりしているが、
「われわれ商人はどうする!」と議論した結果 満場一致で開港場はこの横浜にと決議された。
「横浜」が正式に国際港になった因縁の大火事だった。
その後、横浜も江戸同様火事が絶えなかった。
代表的な大火事は
1866年11月26日に発生した「慶応の大火」

No.294 10月20日(土)防災道路を造れ!
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/10/no2941020.html


関内全域を焼き尽くしたことがきっかけで、遊郭の代わりに洋式公園(横浜公園)ができたり、外国人居留地と日本人居留地を分けた類焼防止に日本大通ができた。
現在も残る関内エリアの近代的な街並整備のきっかけとなったのは火事という歴史の皮肉といえるだろう。
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2013 横浜わが街シリーズは
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